第2章:動く迷宮と血の足跡(後編)
ミリミリ、ミリミリ……。
石と石が凄まじい質量で擦れ合う不快な重低音が、長い回廊全体に反響していた。
見上げるほど高い天井の隙間から、何百年もの間積もっていたであろう漆喰の白い粉が、雪のようにハラハラと降ってくる。左右の壁が、一秒に数センチという確実な速度で、中央に向かって狭まってきていた。
「いやあああ! 開けて! ここを開けてよぉ!」
金髪の女が、爪が剥がれて血が滲むのも構わず、完全にロックされた木製の扉を叩き続けている。
「狂ってる……こんなの、脱出ゲームなんかじゃない! おい、聞こえてるんだろクソジジイ! ここを開けろ! 俺は一千万が欲しいだけだ!」
スーツの中年男がスピーカーを見上げて怒号を浴びせるが、返ってくるのは無機質な壁の駆動音だけだった。
「朝陽、落ち着いて壁の絵を見て」
彫刻の影に身を潜めたまま、早希が俺の腕を強く引いた。彼女の視線は、狭まりくる壁に掛けられた無数の肖像画に注がれている。
「絵……? 目が動いてるやつか?」
「それだけじゃない。さっき老人は『謎解き』って言った。このトラップを止める、あるいはここから抜け出す鍵がどこかにあるはず。……見て、あの二人が叩いている扉のすぐ横にある肖像画」
俺は目を凝らした。
金髪の女が狂ったように縋りついている大きな扉。そのすぐ右側に掛けられた油絵は、他のものとは明らかに雰囲気が異なっていた。描かれているのは、豪奢な椅子に座る一人の老貴族。だが、その胸元には、本物のナイフが突き刺さっているかのように、キャンバスを引き裂いて「本物の鉄の短剣」の柄が突き出ていた。
そして、その絵の下の額縁には、煤けた文字でこう刻まれていた。
――『罪深き者に、相応き生贄を。天秤の傾きが、進むべき道を拓く』
「生贄……天秤……?」
俺が呟くと同時に、早希の冷徹な脳細胞が火花を散らしたように、その瞳が鋭く光った。
「分かったわ。朝陽、あの二人よ。あの二人が服を血で染めている理由。老人は『他者への危害は禁止』というルールを破った者がいると言った。あの二人は、黒づくめの男から逃げる途中で、自分たちが助かるために他の参加者を突き飛ばしたか、あるいは……自分たちで刺して、身代わりの囮にしたのよ」
「じゃあ、あの血は……!」
「ええ。この城のシステムは、それを感知した。壁の肖像画の目が動いているのは、私たちの行動を監視しているから。あの仕掛けを解くには――」
早希が言葉を切り詰めた瞬間、回廊の中央で凄まじい肉声のぶつかり合いが始まった。
「おい、お前! お前がグズグズしてるから道が塞がったんだよ!」
スーツの中年男が、突然狂暴な目を剥いて金髪の女の髪を掴み上げた。
「な、何すんのよ離して! あんたこそ、さっきの部屋で私を盾にしようとしたじゃない!」
「うるさい! 死ね、お前が死ねば、壁が止まるかもしれないんだろ! 生贄って書いてあるじゃないか!」
極限の恐怖は、人間を簡単に獣へと変える。男は女を床に組み伏せ、その首を全力で絞め始めた。女は顔を真っ赤に染めながら、男の顔を爪で激しく引っ掻く。血と、脂汗と、剥き出しの殺意が、狭まりゆく回廊の絨毯の上でのたうち回っていた。
すでに左右の壁は、大人が二人並んで歩けないほどに狭まっている。俺たちが隠れている彫刻の影も、あと数分で壁に押し潰されて粉々になるだろう。
「朝陽、行って。あの絵に刺さっている短剣を抜くのよ」
早希が俺の背中を押した。
「え!? でも、あいつらの目の前を――」
「あいつらは互いを殺すことに夢中で、こっちを見ていないわ! 壁が閉まりきる前に、あの短剣を抜いて、絵の『心臓』に刻まれたスリットに差し替えるのよ! 『天秤の傾き』っていうのは、罪の重さを精算しろって意味よ!」
「分かった!」
俺は彫刻の影から飛び出した。
床を這う冷たい風が、血の匂いを運んでくる。取っ組み合う二人を飛び越えるようにして、俺は老貴族の肖像画へと肉薄した。
壁が迫っているせいぜい、絵と俺の身体の距離は数十センチしかない。圧迫感が凄まじい。
「くそっ、抜け……!」
絵から突き出た短剣の柄を両手で掴み、全力で引っ張る。だが、錆びついているのか、びくともしない。
「おい、何だお前はぁっ!?」
首を絞められていた女の隙を突き、中年男が俺の存在に気づいた。血走った目で、獣のような声を上げて俺に掴みかかろうとしてくる。
「邪魔するなッ!」
俺はバイトの配達で培った脚力を活かし、迫り来る男の腹を目がけて、思い切り泥塗れのスニーカーで前蹴りを叩き込んだ。
「ぐはっ!?」
男が派手に後ろへ吹っ飛び、迫り来る反対側の壁に背中を強打する。
その隙に、俺はもう一度短剣に手をかけ、全身の体重を後ろへかけた。
ガキィン! と高い音がして、ついに油絵から鋭利な短剣が引き抜かれた。それと同時に、絵の中の老貴族の目が、カチリと音を立てて真下を向いた。
「早希! 抜いたぞ! 次は!?」
「その短剣を、男の足元にある床の『天秤のレリーフ』の軸に突き刺して!」
廊下の端から、早希が必死に叫ぶ。
俺は床に目を落とした。男が呻いているすぐ脇の絨毯が、壁の移動によってめくれ上がり、そこには真鍮で作られた、歪な天秤のレリーフが隠されていた。
俺は躊躇せず、床のレリーフの中心にある穴へと、短剣を全力で突き立てた。
ドスン!!!
回廊全体が、ひときわ大きな地響きを立てて跳ね上がった。
駆動音が止まる。
ミリミリと鳴っていた壁の移動が、俺の鼻先数センチのところで、ピタリと停止した。
「止まった……? 助かった、のか……?」
俺はその場に膝をつき、激しく肩を上下させた。冷や汗が全身から噴き出し、インナーをぐっしょりと濡らしている。
しかし、安堵したのも束の間。
ガチャン、という、何かが開放される音が響いた。
それは、俺たちの目の前にある重厚な扉のロックが外れた音だった。だが、それと同時に――。
バリバリバリ!!! と、激しい音を立てて、回廊の天井にあるすべての『肖像画』が、内側から破られた。
「いや……嘘だろ……」
破られたキャンバスの奥から姿を現したのは、無数の「黒い鎖」だった。
その鎖の先端には、肉を抉るための鋭利なフックが取り付けられている。
「ひっ、あ、あああ!」
床でへたり込んでいた中年男と金髪の女が、逃げる間もなく、その鎖に捕まった。
「ぎゃああああああああ!」
「助け、て、助けてぇえええ!」
絶叫が回廊を満たす。鎖は容赦なく、二人の身体を天井の闇の向こうへと、凄まじい速度で引き上げていった。絨毯に、大量の赤い雨が降り注ぐ。
二人の悲鳴は、瞬く間に遠ざかり、やがてゴトリ、という重い音が天井の裏で響いた後、完全に聞こえなくなった。
静寂が戻ってきた。
残されたのは、血塗られた絨毯と、目の前で開かれた不気味な扉。
「朝陽……!」
早希が壁の隙間をすり抜け、青ざめた顔で俺の元へ駆け寄ってきた。彼女は俺の無事を確認すると、その場にへたり込み、俺の服の裾を強く握りしめた。
「あの二人は……『仕掛け』に処刑されたのよ。ルールを破ったから」
「ああ……。老人の言う通りだった。危害を加えた奴は、この城そのものに殺される」
俺は開かれた扉の向こうの、暗い闇を見つめた。
1,000万円という大金が、人間の理性をいとも簡単に狂わせ、化け物へと変えてしまう。もし、俺たちも一歩間違えれば、あの二人と同じように互いを貪り合っていたかもしれない。
「行こう、早希。ここにいたら、また次の何かが来る」
「ええ……。しっかり掴まっていてね、朝陽。次は、もっと深い地獄かもしれないから」
俺たちは血の海を飛び越え、開かれた扉の向こう――さらなる狂気が渦巻く、第三のフロアへと足を踏み入れた。




