第2章:動く迷宮と血の足跡(前編)
「走って、朝陽! 捕まったら終わりよ!」
早希の鋭い叫び声が、水を跳ね上げる鈍い音と共に鼓膜を叩いた。
すでに水位は太もものあたりまで達している。冷たい水は想像以上の質量で俺たちの脚にまとわりつき、一歩を踏み出すたびに恐ろしいほどの体力を奪っていく。
前方から迫る黒づくめの男――その漆黒の仮面の奥にあるはずの「目」が、暗暗とした廊下でぎらりと光ったような気がした。男は濁流をものともせず、巨体に似合わない恐るべきバランス感覚で、水を割りながらこちらへ突進してくる。その手に握られたサバイバルナイフが、松明の炎を浴びて赤黒く妖しくきらめいた。
「くそっ、こっちだ!」
俺は早希の腕を掴み、彼女の記憶を頼りに最初の角を右へと猛烈に折れた。
バシャリと激しい水音が背後で響く。振り返る余裕はなかったが、あの怪物がすぐ後ろまで迫っているのは空気の振動で分かった。心臓が痛いほどに脈打ち、肺が冷たい空気を求めて悲鳴を上げる。
「次の角を左! その突き当たりに隠し扉があるはず!」
早希が息を切らせながら叫ぶ。彼女の黒髪は飛び散る水飛沫で濡れそぼり、額に張り付いていた。だが、その瞳だけはまだ諦めていない。
言われた通りに左へ曲がると、そこは異様に細く長い直線通路だった。そして、その最奥は――冷酷な石壁で行き止まりになっていた。
「行き止まり……!? 早希、本当にここか!?」
「間違いないわ、私の部屋の地図ではここが『上への抜け道』になっていた! 壁のどこかに仕掛けがあるはずよ!」
俺たちは激しく波立つ水に浸かりながら、狂ったように石壁を叩き、探った。水位はすでに腰の高さにまで達している。このまま扉が見つからなければ、俺たちはここで溺れ死ぬか、後ろから迫る刃物の錆になるだけだ。
ジャブ、ジャブ、ジャブ……。
通路の入り口に、あの不気味な影が姿を現した。黒づくめの男だ。男は狭い通路に逃げ込んだ俺たちを見て、逃げ場がないことを確信したように、ゆっくりと、しかし確実に歩みを進めてくる。ナイフの先端から、先ほどの犠牲者のものだろうか、どろりとした血が水面へと滴り落ち、波紋を作って消えていく。
「早く……早く見つかってよ……!」
早希が爪が割れるのも構わず、石壁の隙間に指をねじ込もうとしている。彼女の横顔に、初めて明確な「死への恐怖」が浮かんでいた。
その時、俺の右手が、他の石よりもわずかに奥へ沈み込む「歪な石」に触れた。
「――これだ!」
火事場の馬鹿力で、その石を全力で押し込む。
ズ、ズズ……と重苦しい岩の摩擦音が響き、目の前の石壁がガラガラと音を立てて内側へと回転を始めた。大人がようやく一人通れるほどの、暗い隙間が姿を現す。
「早希、先に行け!」
「でも――」
「いいから早く!」
俺は早希の背中を強引に押し込み、彼女が隙間の向こうへ滑り込んだのを確認すると、すぐに自分もその狭い穴へと身体をねじ込んだ。
背後で、ヒュッという空気を切り裂く鋭い音がした。
直後、ガキィン! と火花を散らして、俺がさっきまでいた場所の石壁にサバイバルナイフの刃が激しく叩きつけられる。ほんの数センチ、反応が遅れていたら、俺の背骨は叩き割られていただろう。
「閉まれ、閉まれッ!」
回転する石壁の裏側にあった鉄製のレバーを、俺は体重のすべてをかけて引き下げた。
ギギギと音を立てて壁が閉まり、完全に噛み合う。直後、壁の向こう側から「ドォン!」と、怪物が怒りに任せて壁を殴りつける凄まじい衝撃が伝わってきたが、石壁が破られる気配はなかった。
「はぁっ……はぁっ……、生きて、る……」
俺はその場に仰向けにひっくり返り、激しく酸素を吸い込んだ。体中が冷たい水で冷え切り、ガタガタと震えが止まらない。
だが、ここはもう水浸しではなかった。どうやらこの隠し通路は、上層へと続く急勾配の階段になっているようだった。
「朝陽、大丈夫……?」
暗闇の中から、早希の声が聞こえた。彼女の手が、暗闇の中で俺の肩を探し当て、そっと包み込む。その手もまた、小刻みに震えていた。
「ああ、なんとかな。早希、お前のおかげだ。あの地図を覚えてなきゃ、今頃二人ともあの世だった」
「お互い様よ。あんたの力がなきゃ、あの石は動かせなかった。……本当に、良いコンビになれそうね」
暗闇の中で、早希が小さく息を漏らす。それは安堵の溜息だった。
手探りで周囲を確認すると、階段の壁に古いランタンが掛けられているのを見つけた。備え付けのマッチで火を灯すと、オレンジ色の微かな光が、埃っぽい一本の階段を照らし出した。
「行きましょう。水がここまで上がってくる前に、上の階へ」
俺たちはランタンの灯りを頼りに、濡れた靴を重く鳴らしながら階段を上り始めた。
どれほど階段を上っただろうか。ようやく辿り着いた先には、錆びついた鉄の扉があった。
俺が肩で強く押し開けると、そこは先ほどまでのフロアとは全く異なる、異様な光景が広がる空間だった。
「……何よ、ここ」
早希が呆然と呟く。
そこは、豪華絢爛な絨毯が敷き詰められた、長い、長い回廊だった。壁にはびっしりと、中世の貴族か、あるいはこの城の歴代の主たちのものだろうか、巨大な油絵の肖像画が何枚も掛けられている。
しかし、そのどれもが、どこか不気味だった。描かれている人物たちの目が、妙に生々しく、まるで生きている人間の目のように濁った光を放っているのだ。
そして何より異常なのは――その回廊のあちこちに、大量の「血の手形」や「引き摺られたような血痕」が残されていることだった。それはまだ新しく、どろりとした赤さを保っている。
「誰かが、ここで争った跡……?」
俺が呟いたその時、回廊の奥から、複数の足音がバタバタと近づいてくるのが聞こえた。
「隠れて!」
早希が素早く俺の服を引っ張り、近くにあった大きな彫刻の影へと身を潜める。
現れたのは、2人の参加者だった。
一人は、最初に広間にいた、高級そうなスーツを着た小太りの中年男性。もう一人は、派手な金髪に染めた若い女性だ。2人とも、服を血で真っ赤に染め、狂乱状態で走ってきた。
「開かない! どの扉も開かないぞ! どうなってるんだ!」
中年男が壁の扉を激しく叩きながら叫ぶ。
「嫌、もう嫌! さっきの奴、何なのよ! ルール違反じゃないの!?」
金髪の女性は髪を振り乱し、座り込んで泣き叫んでいる。
彼らもまた、あの黒づくめの男――あるいは「別の何か」に襲われ、ここまで逃げてきたのだろう。
「ねえ、朝陽」
早希が俺の耳元で、消え入りそうな声で囁いた。
「何かおかしいわ。あの2人の服についている血……あれ、自分たちの血じゃない」
「え……?」
俺は目を凝らして2人を観察した。確かに、衣服は血塗れだが、彼ら自身が致命的な怪我を負って動けなくなっているようには見えない。衣服にべっとりと付着した大量の血の出所は、彼ら自身の傷口からではない。
ということは、あの血は――。
「あいつら、他の参加者を……?」
その時、回廊の空気が一変した。
壁に掛けられていた無数の肖像画。その絵の中の人物たちの「目」が一斉にギョロリと動き、逃げてきた2人の参加者をじっと見つめたのだ。
カチ、カチ、カチ……。
不気味な時計の秒針のような音が、誰もいない回廊の天井から響き渡る。
同時に、俺たちが今通ってきたばかりの鉄の扉、そして中年男たちが叩いていた扉のすべてから、一斉に「ガチャン!」と、重苦しい施錠音が響いた。
『あー、あー。第二フロアへようこそ、哀れな子羊たち』
スピーカーから、あの老人の、反吐が出るほど上品な声が響く。
『このフロアは【疑惑の間】。皆様には、少々過激な『謎解き』に挑戦していただきます。おや……そこのお二方、随分と手が汚れているようですな?』
老人の言葉に、スーツの男と金髪の女がビクリと身体を跳ね上げた。
『ルールを思い出してください。『他の参加者への危害は禁止』でございます。……しかし、もしも『仕掛け』のフリをして、他者を排除しようとした者がいるならば。この城そのものが、その罪を裁くことでしょう』
老人の声が消えた瞬間、回廊の壁が、ミリミリと音を立てて「動き」始めた。
左右の壁が、信じられないほどの圧力で、中央に向かって狭まってきているのだ。
「いやあああ! 壁が動いてる! 潰される!」
金髪の女が絶叫する。
「早希、これって……!」
「ええ、時間制限付きの圧殺トラップよ! でも、老人のヒントを聞いた!? あの2人、ただ逃げてきたんじゃない。黒づくめの男の混乱に乗じて、『他の参加者を自分たちで殺した』んだわ!」
互いを信じて手を組んだ俺たちのすぐ目の前で、人間の醜い「裏切り」の代償が、最悪の形で支払われようとしていた。




