第1章:招かれざる生贄(後編)
ドアのラッチがカチリと小さな音を立てて噛み合い、部屋は完全な静寂に包まれた。
いや、静寂ではない。俺の肋骨を裏側から叩くような激しい心音と、目の前にいる少女――早希の、小さくも鋭い呼吸の音が、狭い石室に満ちていた。
俺は膝の震えを抑えきれず、そのまま壁に背を預けて床に滑り落ちた。
「はぁ、はぁ……死ぬかと、思った……。あの男、躊躇がなかった。人間を殺すことに、完全に慣れてやがった……」
「声を落として」
早希はドアにぴったりと耳を押し当て、外の廊下の様子を窺っている。彼女の横顔は、彫刻のように硬くこわばっていた。短めの黒髪の間から覗く耳が、微かな音をも聞き逃すまいと張り詰められているのがわかる。
数分が経過しただろうか。気の遠くなるような沈黙の後、早希はようやくドアから身体を離し、「ふぅ」と小さく息を吐いた。
「……足音は通り過ぎたみたいね。あいつの目的が『見つけた者を片っ端から殺すこと』なら、わざわざドアを一枚ずつ破って隠れん坊をするより、廊下をうろついている獲物を探す方が効率がいい。ひとまずは、ね」
彼女はそう言うと、床に座り込んでいる俺を見下ろした。その瞳には、恐怖を rational(理性的)な思考で無理やり抑え込んでいるような、独特の冷徹さがあった。
「あんた、名前は?」
「……朝陽。一ノ瀬 朝陽だ。高校生だよ」
「私は雨宮 早希。同じく高校生。……見ての通り、普通の高校生が来るような場所じゃないわね、ここは」
しばらく話した後、俺はタトゥーのある男の部屋で地図を見たことを伝えた。
早希は自嘲気味に口元を歪めると、部屋の奥にある壁を顎でしゃくった。
「私の部屋にもあるわよ。ほら、あれ」
彼女が指差した先を見て、俺は息を呑んだ。
そこには、やはり赤黒いインクで直接壁に地図が描かれていた。しかし、俺が隣の部屋で見たものとは明らかに構造が異なっていた。
「これ……隣の部屋の地図と違うぞ。あっちの地図では、廊下の突き当たりは右に曲がって階段に続いていたはずだ。でも、この地図だと――」
「突き当たりは袋小路になっていて、隠し扉のマークがある。そうでしょ?」
早希は腕を組んで、壁の地図をじっと見つめた。
「確信したわ。このゲーム、部屋ごとに与えられている『情報』が意図的に変えられている。あるいは――この城の構造そのものが、最初から狂っているのか」
「構造が狂っている?」
「ええ。スタートする前に、あの老人が言っていたわ。『いろいろと改造されております』って。単にトラップが仕掛けられているだけじゃない。私たちが持たされた情報は、どれも断片的で、どれか一つを信じれば必ず死ぬようにできているのよ。さっきあんたが目撃したあの男は、自分の部屋の地図を盲信して、真っ直ぐ『処刑人』の待ち伏せているルートへ突っ込んだのね」
ゾワリ、と背筋に冷たいものが走った。
あの老人は、他者への危害を禁止すると言った。それは裏を返せば、「参加者同士で殺し合う必要はない。なぜなら、私たちが用意した仕掛け(殺人鬼)が、あなたたちを公平に皆殺しにするからだ」という意味だったのだ。
「1千万の小切手なんて、ただの餌だ。最初から誰も生きて帰す気なんてないんだ……!」
俺は頭を抱えた。親の借金5百万円を返して、普通の生活に戻りたい。そんなささやかな、だけど切実な願いを利用され、こんな地獄へ連れてこられた。絶望が、じわじわと涙になって視界を滲ませていく。
そんな俺の前に、早希がゆっくりと歩み寄り、その場にしゃがみ込んだ。
彼女の手が、俺の泥に汚れたスニーカーのつま先に触れる。
「ねえ、朝陽。あんた、何のためにここへ来たの?」
「……親が蒸発して、借金が残ったんだ。5百万。高校生のバイトじゃどうしようもなくて、あの小切手があれば、全部元通りになると思って……」
「そう。私はね、病気の妹の治療費。海外でしか受けられない手術で、どうしても数千万円単位のお金が必要だった。だから、この怪しい招待状に賭けるしかなかった」
早希は静かに、しかし燃えるような眼差しで俺の目を見つめた。
「事情は違えど、私たちは引けない理由がある。そして、この城のルールは『最初の一名のみにサインをする』。つまり、本来なら私とあんたも敵同士よ」
「……だったら、なんで俺を助けたんだよ。見捨てて、あいつに殺させれば良かっただろ」
「一人じゃ、絶対にこの城を攻略できないからよ」
早希はきっぱりと言い放った。
「部屋ごとに情報が違うなら、生き残っている他の参加者の情報を集めるか、あるいは複数の部屋の地図を合成して『本物のルート』を導き出すしかない。私は優れた記憶力があるの。一度見たものは忘れない。でも、さっき黒づくめの男を見た時、身体がすくんで動けなかった。もし一対一で遭遇したら、私は確実に殺される」
彼女は俺の腕を強く掴んだ。驚くほど冷たく、しかし力強い手だった。
「あんたには、あの怪物から逃げ切れる脚力と、土壇場で隣の部屋へ入る機転がある。私の『頭脳』と、あんたの『身体』。2人で組めば、生存確率は跳ね上がるわ。……どうする? ここで一人で震えて死ぬか、それとも私と手を組んで、あのクソみたいな老人を殴り飛ばしにいくか」
選択肢なんて、最初からなかった。
一人では、次の角を曲がった瞬間にあの刃物の錆にされる。だが、この少女の冷徹な目を見ていると、不思議と凍りついていた心臓が動き出すような気がした。
「……分かった。組もう。ただし、条件がある」
「何?」
「もし、本当に最後の一人しか出られない仕様だったとしても……最後の瞬間まで、お互いを後ろから刺さないこと。それだけは約束してくれ」
早希は一瞬、意外そうに目を見開いたが、すぐにフッと小さく微笑んだ。彼女が初めて見せた、高校生らしい年相応の笑顔だった。
「いいわ。約束する。私たちは、あんな化け物や運営とは違う『人間』だもの」
2人が固く手を握り締めた、その時だった。
チリチリ……、と。
またしても、壁のスピーカーからあの不快なノイズが響き渡った。
『あー、あー。プレイヤーの皆様、大変遺憾ながら、開始早々に1名が脱落となりました。ルール違反によるペナルティ……ではなく、純然たる力不足でございます。実に嘆かわしい』
老人の声は、まるでチェスの駒が一つ減ったのを楽しむかのように軽快だった。
『さて、退屈なゲームは好まれませんので、ここで第1のイベントを開始いたします。題して――【水葬の間】』
ゴゴゴゴゴ……!!
老人の言葉が終わるか終わらないかのうちに、城の深淵から地響きのような重低音が鳴り響いた。
何かが激しく擦れ合う音。そして――凄まじい勢いで流れる「水の音」が、階下から、そして天井の配管から聞こえ始めた。
「な、何だ!? 何が起きてる!」
俺が叫ぶと同時に、早希はすでに壁の地図へと駆け寄っていた。
「朝陽、見て! 壁のインクが……!」
驚愕の声を上げる早希の視線の先、壁に描かれていた赤黒い地図の線が、まるで生き物のようにドロドロと溶け、形を変え始めていた。
いや、溶けているのではない。水が壁の隙間から染み出し、描かれていたインクを洗い流しているのだ。それと同時に、ドアの隙間から、冷たい水がじわじわと床へと流れ込んできた。
「嘘だろ……下の階から水がせり上がってきてるのか!?」
「このフロア全体を水没させる気よ! 急いで上の階へ行かないと、溺死するか、さっきの黒づくめの男に遭遇するか、二択になる!」
床の水位は、みるみるうちに足首の高さまで達した。冷たい水が体温を奪っていく。
「早希、隣の部屋の隠し扉のマーク、どこにあった!?」
「私の部屋の地図だと、ここから左に出て3つ目の角を右よ! 記憶してる、私についてきて!」
早希は濡れるのも構わずドアのラッチを跳ね上げ、廊下へと飛び出した。俺もその後を必死で追う。
廊下に出ると、すでに水位は膝の近くまで達していた。濁った水が激しく波打ち、歩を狂わせる。他の部屋からも、悲鳴を上げながら飛び出してくる参加者たちの姿が見えた。
だが、恐怖はそれだけでは終わらなかった。
ジャブジャブと、水を激しく撥ね退ける、重い足音が前方から聞こえてきた。
水の幕の向こう、松明の微かな光に照らされて浮かび上がったのは――
返り血で濡れた漆黒の防護服。
そして、水面を割りながらこちらへと真っ直ぐに向かってくる、巨大なサバイバルナイフの刃だった。
「来やがった……!」
逃げ場のない一本道、迫り来る濁流、そして、最悪の処刑人。
俺と早希の、命を賭けた本当のゲームが、いま幕を開けた。




