第1章:招かれざる生贄(前編)
「はぁっ、はぁっ、何だありゃ!」
俺は、人間の身体がああも簡単に壊れる瞬間を、生まれて初めて目撃してしまった。
どす黒い影のような男が、さっきまで怯えた顔で周囲を見回していた参加者の男を、容赦なくナイフで刺したのだ。
肉を裂き、骨を削る、嫌な鈍い音が廊下に響いた。男はまともな悲鳴すら上げられず、喉を鳴らして血の海に沈んでいった。黒づくめの男は、一切の感情を排した機械的な動作でナイフを引き抜くと、俺が隠れている物陰には目もくれず、音もなく暗がりの向こうへと去っていった。
幸い、俺には気が付かなかったらしい。しかし、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れ、喉の奥がカラカラに干からびていた。手の震えが止まらない。
こんな話は聞いていない。聞いていないなんてレベルじゃない。
「くそっ、何がゲームだ! クリアさせる気なんて無いだろ絶対!」
壁に背中を預け、ずるずると床にへたり込む。膝を抱え、自分の愚かさを激しく後悔した。
なぜ、あの不気味な手紙を信じてしまったのか。なぜ、うまい話の裏にある地獄に気づけなかったのか。
すべては、あのまっさらな封筒から始まったのだ。
きっかけは、一通の手紙だった。
アパートの古びたポストに投函されていた封筒には、差出人の名前どころか、俺の住所も、切手すらも貼られていなかった。つまり、誰かが意図を持って直接足を運び、俺の部屋のポストに差し込んだということだ。
「何だってそんなめんどくさいことを」
その時の俺は、ただただ不気味に思っただけだった。普通なら、新興宗教の勧誘か悪質な悪戯だと思って、開封もせずにゴミ箱へ投げ捨てていただろう。だが、その時の俺は、藁にもすがる思いでその怪しい封筒を見つめていた。一縷の望みでもいい、何かの生活の足しになる情報が入っていれば、と。
俺の親は、ちょうど一年前に蒸発した。
高校生の俺に一切のまっとうな言葉を残さず、ただ夜逃げ同然に消えたのだ。それだけならまだしも、彼らは「多額の借金」という最悪の置き土産を俺の肩に残していった。
毎日、学校が終われば夜遅くまで複数のバイトを掛け持ちし、自分の食費とわずかな光熱費を稼ぐだけで精一杯。膨れ上がる借金の利息を返すなんて、高校生の細腕には到底不可能な話だった。
だから、どんなに怪しい情報であっても、乗るか反るかを検討せざるを得ないほどに追い詰められていた。
「とりあえず、開けてみるか……」
部屋の薄暗い蛍光灯の下で、封筒を破る。
中から出てきたのは、上質な紙で折られた一通の手紙。そして、もう一枚。透かしの入った、名前の記入されていない小切手だった。
そこに印字された数字を数えた瞬間、俺の呼吸は止まった。
「一、十、百、千、万……嘘だろ、1千万の小切手だと?!」
まだ受取人の名前が空欄なので、今すぐ銀行に持っていっても現金化はできない。だが、1千万円という大金があれば、親の残した借金を返済し終えることができ、俺は普通の高校生としての生活を取り戻すことができる。
手紙の本文に目を落とす。
『ゲームの招待状。
プレイヤーとしての参加を歓迎する。
無事にゲームをクリアした暁には、同封した小切手に正式なサインを入れ、君の資産とすることを約束しよう』
ゲームの詳細については一行も触れていなかった。ただ、参加を希望する場合は、指定された日時に〇〇空港の第3格納庫裏に集まるように、とだけ書かれていた。
その空港なら、俺の家からかなり遠いが、自転車を必死に漕げば行けない距離ではない。何より、日程はちょうど夏休み期間の初日に設定されていた。
「まるで、俺に参加して欲しいって言ってるみたいだな」
誰かが俺の困窮を知っていて、あえてこのタイミングで罠を仕掛けたのではないか。そんな猜疑心が頭をよぎったが、背に腹は変えられなかった。自慢じゃないが、俺には人に誇れる特技も、頼れる親戚もいない。あるのは、バイトの配達で鍛えた体力と、失うもののない無謀さだけだ。
「行くしか無いか」
俺はリュックに着替えだけを詰め込み、愛車の自転車にまたがって空港へと向かった。
だが、到着した俺を待っていたのは、想像を絶する規模の現実だった。
「……個人所有の飛行機だと?」
格納庫の奥に鎮座していたのは、漆黒の小型プライベートジェットだった。
タラップの前に立つスーツ姿の無表情な男に手紙を見せると、何も言わずに中へと促された。その時になって初めて、俺は自分がパスポートすら持っていないことに気づいた。しかし、男は荷物のチェックもせず、身分証の提示も求めない。リュックの中身は本当に着替えだけだ。
機内に入ると、座席は驚くほど豪華だったが、他に参加者の姿は見当たらなかった。俺一人だけを乗せるために、この飛行機は動くのか。
個人でこんな航空機を自由に動かせるほどの富豪なら、俺たち庶民にとっての1千万円など、彼らにとっては端金に過ぎないのだろう。ゲームをクリアすれば本当に金が貰えるという話に、にわかに真実味が帯びてきた。
しかし、離陸してしばらく経った頃、異変が起きた。
機内にはパイロットの気配すらなく、不気味なほど静まり返っていた。窓の外の雲海をぼんやりと眺めていた時、足元から「シューッ」という不穏な排気音が聞こえた。
見上げると、天井の隙間から白い煙が勢いよく噴き出している。
「な、なんだ!?」
慌てて立ち上がり、袖で鼻と口を覆ったが、全く意味はなかった。煙を吸い込んだ瞬間、強烈な目眩が俺を襲う。視界がぐにゃりと歪み、凄まじい睡魔が泥のように押し寄せてきた。
抗う術もなく、俺は座席に崩れ落ち、意識を失った。
「ここはどこだ?」
次に目を覚ました時、俺は硬い石の床の上に倒れていた。
頭を割るような頭痛に耐えながら起き上がる。周囲を見回すと、そこは窓の小さな、中世の牢獄を思わせる石造りの部屋だった。
窓の外を覗き込むと、背筋が凍った。遥か下方に、深い霧に包まれた森が広がっている。どうやらここは、切り立った崖の上に建てられた古城のようだ。比較する対象がないから正確な階数はわからないが、ビルの十階、いやそれ以上の高さは確実にある。
「まさか、誘拐されたのか?」
混乱しながらも、部屋の唯一の木製のドアに手をかける。カギはかかっていなかった。いや、内側から鍵をかけるタイプのラッチがついているだけで、外から閉じ込められているわけではないようだ。
意を決して廊下へと這い出た瞬間、目の前に影が立ちはだかった。
「おわっ!」
「驚かせて申し訳ありません。目が覚められたのでしたら、会場へご案内します」
そこにいたのは、仕立ての良い高級なスーツを纏った、白髪の老人だった。執事のような物腰だが、その目は一切笑っていない。
俺は言葉を返せないまま、静かに歩き出す老人の後ろを呆然とついていくしかなかった。
案内されたのは、同じ階の突き当たりにある、異様に天井の高い広間だった。
重厚な観音開きの扉が開け放たれると、そこにはすでに数人の男女が集まっていた。俺が中に入ると同時に、背後でズシンと重い音を立てて扉が閉められ、完全にロックされた。どうやら、俺が最後の参加者だったらしい。
集まったメンバーは、全部で7、8人といったところか。
派手なタトゥーを入れた体格のいい男、怯えたように爪を噛む小柄な女性、高級そうなスーツを着た中年男性。そして、部屋の隅で一人、冷徹な目で周囲を観察している同年代の少女がいた。
その少女は、短めの黒髪に、芯の強そうな鋭い瞳をしていた。この異常な状況下において、彼女だけがパニックに陥らず、周囲の人間や部屋の構造をじっと分析しているように見えた。
「皆さま、長らくお待たせしました。まずは、集まってくれたお礼を」
先ほどの老人が広間の演台に立ち、恭しく一礼した。
「それでは、わたくしの方からゲームの説明をさせていただきます。まず、ここはある国にある古城でございます。ゲームの会場となる様、いろいろと改造されております。そこで、皆さまにはこの城から脱出するゲームをしていただきます」
老人の言葉に、広間は一気にざわめき立った。
「おい、ここはどこなんだ!」「スマホが圏外だぞ!」と、怒号や悲鳴が飛び交う。その中には英語や、聞いたこともない外国語も混じっていた。参加者は日本人に限らないようだった。
「お静かにお願いします」
老人は低く、だがよく通る声で場を制した。
「脱出の手段は問いませんが、先ほども言った通り皆様の脱出を妨害する仕掛けがいくつかあります。それらを乗り越え、見事脱出した者には、お持ちの小切手にサインを致します」
やはり、ここにいる全員にあの1千万円の小切手が送られていたのだ。
だが、老人は「脱出した者」と言った。「最初に脱出した一人」とは言わなかった。ということは、全員で協力して仕掛けを解けば、全員が救われて金も手に入るのではないか?
俺がそう考えた瞬間、一人の青年が声を上げた。
「なあ、質問いいか? それって、全員が脱出しても金を貰えるんだろうな?」
老人は不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと首を振った。
「もちろん……最初に脱出した1名のみでございます。ただ、他の参加者の妨害をされても困りますので、『他の参加者へ危害を加える事は禁止』いたします。それでは、一度先ほどの部屋へ戻っていただき、1時間後に開始いたします」
自分の部屋に戻された俺は、ベッドに腰掛けて激しく思考を巡らせていた。
ルールを文字通り受け取るなら、敵は城の「仕掛け」だけだ。時間をかければクリアできるかもしれない。だが、のんびりしていれば他の誰かに先を越される。
他者への危害が禁止されている以上、出し抜くには知恵とスピードしかない。
「けど、協力すれば……。要は、金が貰えるのは最初の一名だけだけど、そいつが後で協力者に分け前を払えばいいんじゃないか?」
俺の借金は5百万だ。もし1千万手に入るなら、残りの5百万を誰か協力してくれた奴に渡したって、俺の目的は達成される。そんな風に、全員が裏で結託してクリアすることを、運営側は想定していないのだろうか?
そんな甘い考えを巡らせているうちに、1時間が経過した。
壁のスピーカーから、チリチリと雑音が混じった老人の声が響く。
『それでは皆様、時間となりました。スタートでございます』
その合図と同時に、俺は弾かれたようにドアを開けて廊下へ飛び出した。
同時に、隣の部屋のドアからも、あの派手なタトゥーを入れた男が飛び出してきた。男は俺を一瞥すると、迷うことのない足取りで右側の通路へと猛ダッシュしていった。
「迷いなくあっちへ行ったな。何かあるのか?」
俺は男の走っていった方向を見送りながら、あえて男が飛び出してきた「隣の部屋」に滑り込んだ。
直感が告げていた。あの迷いのない動きは、何かを知っている者の動きだ。
部屋に入ると、一目で理由がわかった。
壁の石肌に、この階の構造を示す簡素な地図が、赤黒いインクで直接書き込まれていたのだ。俺の部屋にはそんなものはなかった。男が向かった先には、下の階へと続く階段がある。
だが、部屋にはメモ用紙もペンも一切ない。この不完全な地図を、脳裏に焼き付けるしかないのだ。
「くそっ、出遅れた!」
他の部屋には、また別の階の地図があるのかもしれない。しかし、それを一つずつ確認している時間はない。男の後を追って、早く下の階へ行かなければ。
そう思って廊下に飛び出し、階段の方へと走り出した、その直後だった。
階下から、鼓膜を震わせるほどの壮絶な絶劇が響き渡った。
人間の肉体が恐怖で極限まで引き絞られたような、獣じみた悲鳴。
俺は息を呑み、壁に身を潜めながら、恐る恐る階段の下を覗き込んだ。
そこには――
さっき勢いよく飛び出していったタトゥーの男が、床に倒れ伏していた。
その背中に馬乗りになっているのは、頭からつま先まで、漆黒の防護服のような衣装に身を包んだ「黒づくめの男」。
男の右手には、禍々しく光る巨大なサバイバルナイフが握られていた。
黒づくめの男は、一切の躊躇なく、倒れた男の首筋に向けて、ナイフを何度も、何度も、深く突き立てた。
ドクドクと溢れ出る鮮血が、灰色の石床をまたたく間に赤く染めていく。
「ひっ……」
喉の奥から漏れそうになった悲鳴を、両手で必死に抑え込む。
他者への危害は禁止。老人は確かにそう言った。なら、目の前で平然と人を屠っているあの怪物は一体何なんだ。仕掛け? 違反者へのペナルティ? 違う、あれは――明確な「悪意」を持った殺人鬼だ。
黒づくめの男は、ピクリとも動かなくなった死体からナイフを引き抜くと、ゆっくりと立ち上がった。そして、返り血を浴びた顔(仮面で覆われていて素顔は見えない)を、俺のいる階段の方へと向けた。
(気づかれた――!?)
心臓が跳ね上がる。俺は脱兎のごとく反転し、狂ったように廊下を駆け抜けた。どこでもいい、あいつから離れられる場所へ。あんなナイフで刺されたら、一たまりもない。
背後から、不気味なほど静かな、しかし確実に近づいてくる足音が聞こえるような気がした。恐怖で視界が狭まる。曲がり角を曲がったその時、俺の身体は、前方から走ってきた「誰か」と激しく衝突した。
「うわっと!?」
「きゃっ!」
短い悲鳴と共に、俺とその人物は激しく床に転がった。
痛む頭を押さえながら顔を上げると、そこにいたのは――広間の隅で冷徹な目をしていた、あの黒髪の少女だった。
「あんた……何なのよ、急に走り出して」
少女――早希は、鋭い目で俺を睨みつけながら、素早く立ち上がって衣服の埃を払った。その手はわずかに震えているものの、声には強い意志がこもっている。
「ち、違う、後ろから、黒づくめの男が凶器を持って……!」
俺が息を切らしながら指差すと、早希の表情が一瞬で強張った。
「凶器? ルールでは危害を加えるのは禁止って……」
「嘘だ! あいつ、ナイフでさっきの男を滅多刺しにして殺したんだよ! ルールなんて最初からねぇ! ここはただの殺し合いの場だ!」
俺の狂乱気味の言葉に、早希は一瞬だけ目を大きく見開いた。だが、彼女はすぐにフゥと深く息を吐き、驚くべき速さで冷静さを取り戻した。
「……なるほどね。老人の言葉を真に受けた奴から死ぬわけか。立ちなさい、ここにいたら見つかってしまうわ。私の部屋に来て」
早希は俺の腕を掴むと、信じられないほどの力で引っ張り上げ、すぐ側にある彼女の部屋へと俺を引き込んだ。そしてドアを静かに閉め、内側のラッチを音を立てずに下ろした。
薄暗い石室の中で、俺と早希の荒い呼吸だけが重なり合っていた。




