第8話 騎士より剣帯
「おはよう、エリシア!今週は何をするの?」
「四」
選択肢を並べる前に答えが返ってきた。
紬はすでに着替えを済ませ、腰に小さな布袋を下げている。中身は知っている。糸の束、細い鉤針、小さな鋏、それから革用の針。前世の紬がいつも鞄に入れていた「出先でも何か作れるセット」の異世界版だ。
「……騎士科の見学に行くんだよね?」
「うん。剣帯を見に」
「騎士を見に行くんじゃなくて?」
「剣帯を見に」
ぶれない。清々しいほどにぶれない。
それでも騎士科に足を運ぶことに変わりはないのだ。そこにはユリウス・クロード先輩がいる。
騎士科の首席で、学園の風紀委員。誠実で面倒見がよく、困っている人を見過ごせない頼れる先輩。ゲームではヒロインが訓練の見学中に危ない目に遭い、それを彼が身を挺して助けるのが出会いのイベントだ。
危ない目に遭うのは困るけれど、そこは先輩が守ってくれるはず。
私はこっそり拳を握った。今度こそ、ちゃんとしたイベントが見られるかもしれない。
できれば見たい。
◇ ◇ ◇
騎士科の訓練場は、学園の南の外れにあった。
踏み固められた広い土の地面。木製の柵で囲まれたその中で、揃いの訓練着を着た生徒たちが木剣を打ち合っている。乾いた打撃音と、鋭い掛け声。土埃が陽の光にきらきらと舞い上がっていた。
柵の外側には見学用の長椅子が並び、女子生徒たちが鈴なりになっている。目当てはもちろん騎士科の男子だ。黄色い声援がひっきりなしに飛んでいる。
「ユリウス様ー!」
「こっち向いてくださーい!」
声援の先を目で追うと、訓練場の中央にひときわ目を引く青年がいた。
短く刈った濃い栗色の髪。広い肩幅。相手の木剣を最小限の動きでいなし、静かに一本を取る。打ち合いが終わると、倒れた相手にすぐ手を差し伸べて引き起こしていた。
『ユリウス・クロード 好感度 0/100』
本物だ。立ち絵より少しだけ背が高い。
「紬、あれがユリウス先輩……」
振り返ると、隣にいたはずの紬の姿がない。
「……紬?」
見回すと、見学席から離れた訓練場の隅に亜麻色の頭が見えた。騎士科の生徒が装備を置いておく武具棚の前だ。しゃがみ込んで、立てかけられた剣帯を至近距離から観察している。
見学席じゃない。どう見ても立ち入っていい場所ではない。
(紬ぃ……!)
連れ戻しに行こうと腰を浮かせた、そのときだった。
「危ない!」
鋭い声と同時に、風を切る音が耳をかすめる。
打ち合いの最中に手を離れた木剣が、くるくると回転しながらこちらへ飛んできていた。まっすぐに、見学席の、私のいるあたりへ。
身体が動かない。
次の瞬間、目の前に大きな背中が割り込んだ。
がん、と硬い音。木剣は誰かの腕に弾かれ、地面に転がる。
「怪我はないか」
低く落ち着いた声。振り返ったのは、栗色の髪の青年だった。
ユリウス先輩だ。
ゲームで何度も見た構図。飛んできた木剣からヒロインをかばい、振り返って優しく声をかける名シーン。背景の土埃、差し込む陽の光、心配そうに覗き込む深い茶色の瞳。何もかもスチルそのままだった。
ただひとつ、守られているのがヒロインではなく私だという点を除けば。
「わ、私じゃないです!」
「……何?」
「あ、いえ、その、大丈夫です!ありがとうございます!」
慌てて首を振る私に、先輩は少し不思議そうな顔をしながらもうなずいた。
「ならいい。見学するなら、もう少し柵から離れて座るように」
先輩の頭上に意識を向ける。
『ユリウス・クロード 好感度 0/100』
ゼロのままだ。モブの私を助けても、好感度は一ミリも動かないらしい。それはそうだ。私は攻略対象と恋愛するための存在じゃない。
わかってはいたけど、ちょっとだけ切ない。
それより問題は、本来この場面にいるべきヒロインのほうだ。
「……ところで」
先輩の視線が、訓練場の隅に向けられた。武具棚の前でしゃがみ込んでいる亜麻色の頭。
「あれは君の連れか」
「……はい。すみません……」
先輩は小さく息をつくと、武具棚のほうへ歩いていった。風紀委員として、部外者を注意しに行くのだろう。
私は慌ててそのあとを追った。
◇ ◇ ◇
「そこは騎士科の生徒以外は立ち入り禁止だ」
「あ、すみません」
紬はあっさり立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。素直だ。素直なのに、目線はまだ剣帯に吸い寄せられている。
「この剣帯の編み込み、八本の革紐で組んでるんですね。しかも途中で二本ずつ入れ替えてる。強度を上げるためですか」
「……ああ。剣の重みで伸びないようにな」
「やっぱり。すごくよく考えられてる」
感心したようにうなずく紬。先輩はわずかに目を見開いた。騎士科の装備の構造を、ひと目で言い当てる令嬢など初めてだったのかもしれない。
そのとき、紬の視線がふと先輩の腰に移った。
先輩が腰に下げた剣。その柄頭から、短い飾り紐が垂れている。藍色と白の糸を編み合わせた房飾りだ。ただ、紐の中ほどがひどく擦り切れていて、今にもちぎれそうになっていた。
「その飾り紐、切れそうです」
先輩の手が、反射的に柄頭へ伸びた。
「……ああ。わかってはいるんだが」
「直さないんですか」
「直せる者がいない。騎士科の装備屋に持っていったが、同じ編み方はできないと言われた。新しいものに替えるよう勧められたが」
先輩はそこで言葉を切った。親指で、擦り切れた紐をそっとなぞる。
「妹が作ったものでな。入学するときに持たせてくれた。替えるのは、どうも気が進まない」
静かな声だった。照れくさそうでも、悲しそうでもない。ただ大切なものを大切だと言っているだけの声。
ゲームでは、ユリウス先輩の家族の話は第四章まで出てこない。こんな序盤で聞けるなんて。
紬はしばらく黙って飾り紐を見つめていた。それから、腰の布袋に手を入れる。
「見せてもらってもいいですか」
「……直せるのか」
「見てみないとわからないです」
先輩は少し迷ったようだったけれど、やがて剣を鞘ごと腰から外し、紬に差し出した。
紬は武具棚の脇の木箱に腰を下ろし、飾り紐を膝の上に広げる。擦り切れた部分を指先でほぐし、ほつれた糸の一本一本を確かめていく。
「藍が四本、白が二本。基本は平結びで、三段ごとに白を表に出してる。で、ここだけ結び方が違う」
紬の指が、房の根元近くで止まった。
「わざと一段だけ逆向きに結んでる。たぶん、ここで模様の向きを変えたかったんだと思う」
「……そうなのか」
「作った人の癖だと思います。丁寧な人ですね」
紬は布袋から藍色と白の糸を取り出した。色味を飾り紐に合わせて何度か比べ、ようやく納得したように二本を選ぶ。
それからは早かった。
擦り切れた部分の糸を少しずつ抜いて、新しい糸と継ぎ合わせる。結び目をひとつ作るたびに、もとの模様と見比べる。妹さんが一段だけ逆向きに結んだところは、そのまま逆向きに。
直すのではない。元の形に戻しているのだ。作った人の癖まで、そっくりそのまま。
先輩は黙ってその手元を見つめていた。いつの間にか、周りには騎士科の生徒たちが集まり始めている。
「おい、あれ何やってんだ」
「ユリウスの飾り紐だろ。装備屋も匙を投げたやつ」
「直してるのか……?」
ざわめきの中、紬は最後の結び目をきゅっと引き締めた。余った糸の端を、鋏で丁寧に切り落とす。
「できました」
差し出された剣の柄頭で、藍と白の飾り紐が揺れていた。
どこを直したのか、ぱっと見ではわからない。擦り切れていた部分がしっかりと編み直されているのに、模様は元のまま途切れずに続いている。
先輩は剣を受け取り、飾り紐を手のひらに載せた。親指で、さっきと同じようにそっとなぞる。
長い沈黙があった。
「……ありがとう」
かすかに震える、低い声だった。
「妹に、顔向けができる」
「よかったです」
紬はいつもの無表情でうなずいた。けれど口の端が、ほんの少しだけ上がっている。いつかの教室で、加奈ちゃんたちの注文を受けたときと同じ顔だ。
私は先輩の頭上を見上げた。
『ユリウス・クロード 好感度 +22』
(にじゅうに!?)
出会って一時間も経っていない。ほとんど会話もしていない。それでいきなり二十二。シリルの初日の記録を軽々と更新していた。
「礼をさせてほしい。何か望みはあるか」
先輩が真剣な顔で紬を見下ろす。紬は少し考えてから、武具棚を指さした。
「剣帯の編み込み、もっと近くで見せてもらえますか」
一瞬の沈黙。
それから、先輩がふっと笑った。訓練中の張りつめた表情からは想像もつかない、柔らかな笑みだった。
「そんなことでいいなら、いくらでも」
『ユリウス 好感度 +3』
見守る騎士科の生徒たちの間から、どよめきが起こる。
「あのユリウスが笑った……」
「なあ、あの子に頼めば俺の剣帯も直してもらえるかな」
「俺の籠手の革紐もほつれてて……」
なんだか、まずい流れになってきた気がする。
◇ ◇ ◇
帰り道。夕焼けの中を、紬はご機嫌な足取りで歩いていた。剣帯を思う存分観察させてもらえたうえ、余った革紐の切れ端までもらったらしい。
「八本組み、帰ったら練習しよう。革紐じゃなくて毛糸でもできるかな」
「……紬」
「ん?」
「さっきの先輩、すごく喜んでたね」
「うん。大事なものだったみたいだから」
紬はあっさりと答える。それ以上の意味は何もない、という顔で。
私は今日一日のことを思い返していた。
殿下の好感度が上がったのは、紬が結界紐を観察していたとき。樹皮を丁寧にはがしていたとき。レオンの好感度が上がったのは、紬が毛糸の撚りを数えていたとき。シリルの好感度が上がったのは、紬が魔法陣を結び目として読み解いていたとき。そして今日、ユリウス先輩の好感度が跳ね上がったのは、紬が飾り紐を直していたとき。
共通点がある。
好感度が上がるのは、紬が恋をしているときじゃない。紬が手を動かしているとき。夢中になって、何かを作ったり確かめたりしているとき。
もしかしてこの世界では、それが紬の「魅力」なのだろうか。ステータス画面の魅力は十五のまま動かないのに。
「そうだ、陽菜」
紬が思い出したように振り返った。
「部屋にある試作品、そろそろ溜まってきたでしょ。手袋とか、蝋燭とか、粘土のブローチとか」
「うん。机の上、もう物置みたいになってるよね」
「だからお世話になった人に配ろうかなって。シリル様と、レオン様と、王子様と、今日の先輩と」
私の足がぴたりと止まった。
お世話になった人に、手作りの品を配る。
ゲームでは、攻略対象に贈り物をすると好感度が上がる。相手の好みに合った贈り物なら大きく、そうでなければ少しだけ。それがゲームの基本的な仕組みだった。
手を動かしているだけでこれだけ好感度が上がるのに。その手で作ったものを、本人に直接渡したら。
「……紬。それ、全員に配るの?」
「うん。試作品だから、使ってもらって感想が聞きたいし」
紬は無邪気にうなずいた。
私はゆっくりと夕焼け空を仰ぐ。
嫌な予感しかしなかった。




