第6話 天才と結び目
王立セレスティア学園の図書館は、学園の北棟をまるごとひとつ使った巨大な建物だった。
吹き抜けの天井まで届く書架。螺旋階段で結ばれた三層の回廊。高い窓から差し込む朝の光の中で、細かな埃がきらきらと舞っている。
「すごい……」
私は入り口で立ち尽くしていた。紙とインクと古い木の匂い。前世の図書室とは比べものにならない。
隣の紬も、珍しく目を丸くしている。
「本、何冊あるんだろう」
「さあ……数えたら一生終わりそう」
「装丁も見たい。あれ、背表紙に箔押ししてる。手作業かな」
「紬、本は読むものだからね?」
念のため釘を刺しておく。前世の紬は読書も好きだったけれど、同じくらい本そのものの作りにも興味を持っていた。製本の仕方を調べて、自分で和綴じのノートを作っていたこともある。
放っておいたら、本を読む前に分解しかねない。
それより、私には大事な使命があった。
(シリル・ルナティス……)
名門魔術師一族の嫡男。学年首席の天才魔術師。無口で人付き合いが苦手で、いつも図書館の一番奥の席にいる。
ゲームでの出会いはこうだ。ヒロインが高い棚の本を取ろうとして背伸びをしていると、背後からすっと手が伸びてくる。振り返ると、無表情のシリルが本を差し出している。
「……これか」
たったひと言。それだけで去っていく後ろ姿。そっけないのに優しくて、多くのプレイヤーの心を撃ち抜いた名シーンだ。
紬が高い棚に手を伸ばしさえすれば、イベントは自然に起こるはず。
「紬、何の本を探すの?」
「魔力の通し方。昨日の粘土、均一に魔力を通す方法が知りたい」
「なるほどね!そういう専門的な本はきっと上のほうの棚だよ!うんと高いところ!」
「そうなの?」
「たぶん!」
根拠はない。けれど紬は素直にうなずき、司書に場所を尋ねにいった。
◇ ◇ ◇
魔法学の書架は、図書館の一番奥にあった。
そして案の定、その一角の窓際の席に、ひとりの少年が座っていた。
夜の色をした長い前髪。銀縁の眼鏡。分厚い本を何冊も積み上げ、ペンを走らせる手だけが規則正しく動いている。周りの空気まで静まり返っているような、近寄りがたい雰囲気。
『シリル・ルナティス 好感度 0/100』
いた。本物だ。
私は書架の陰に身を隠し、紬の動向を見守った。
紬は棚の前に立ち、背表紙を順に目で追っている。やがて、最上段の一冊に視線を留めた。
よし。そのまま背伸びして——。
紬はくるりと振り返り、壁際に立てかけてあった踏み台を引きずってきた。
とん、とん、と二段上がる。目当ての本をすっと抜き取る。踏み台を元の位置に戻す。
流れるような動作だった。一切の無駄がない。
(効率的ぃ……!)
私は書架にこつんと額を打ちつけた。そうだった。前世の紬も、届かない棚があれば迷わず脚立を使う子だった。誰かに頼るという発想がそもそもないのだ。
シリルはペンを止めることすらなく、黙々と書き物を続けている。イベントは始まる前に終わったらしい。
紬はといえば、取り出した本を抱えて近くの閲覧席に腰を下ろしていた。よりによって、シリルの斜め向かいの席に。
表紙には『魔法陣構成基礎論』とある。
ぱらりとページをめくる音。しばらくは静かだった。紬は真剣な顔で文字を追い、ときどき図版のページで手を止める。
その手が、ある見開きでぴたりと止まった。
そこには複雑な魔法陣の図が描かれている。何本もの線が円の中で交差し、絡み合い、また離れていく模様。
紬は本に顔を近づけ、指先で線をなぞり始めた。上へ、下へ、交差するたびに指が浮いたり沈んだりする。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「これ、結び目の図と同じだ」
ペンの音が止んだ。
斜め向かいの席で、シリルがゆっくりと顔を上げる。眼鏡の奥の灰色の瞳が、まっすぐに紬を捉えていた。
「……今、何と言った」
低く、かすれた声。たぶん普段ほとんど喉を使っていない声だ。
紬は顔を上げ、きょとんとシリルを見た。それから、悪びれる様子もなく本を彼のほうへ向ける。
「この図です。線が交わるところ、上を通ってる線と下を通ってる線がありますよね」
「交差の描き分けは、写本の慣習だ。魔術的な意味はないとされている」
「でも、紐だと思って読むと意味があります」
紬の指が、図の一点を示す。
「ここ、上下が交互になってるから平結びです。こっちは同じ線が二回巻きついてるから巻き結び。で、ここ」
指が、円の中心近くの複雑な交差に移る。
「途中で一回、裏に回ってる。昨日、中庭の結界紐で見たのと同じ結び方です。引っ張ってもほどけなかったやつ」
シリルが椅子を鳴らして立ち上がった。
大股で紬の隣に回り込み、本を覗き込む。近い。とても近い。ゲームなら確実にスチルが入る距離だ。
でも二人とも、互いの顔なんて見ていなかった。見ているのは本の図版だけ。
「……結界紐を、見たのか」
「はい。ほどこうとしました」
「ほどこうと」
「ほどけませんでしたけど」
シリルは一瞬だけ言葉を失ったようだった。けれどすぐに、積み上げていた紙の一枚を引き寄せ、ペンを走らせ始める。描いているのは、魔法陣の交差部分の拡大図だ。
「交差の上下を入れ替えたらどうなる」
「結び目が変わります。この場合だと、引っ張ったときにほどけるほうになります」
「ほどけるということは、魔力が逃げる……いや、流れが固定されないのか」
「よくわからないですけど、紐ならそうです」
「では、ここの交差は」
「それは引き解け結びの形です。端を引くと一気にほどけます」
「術式の解除点……!」
会話の速度がどんどん上がっていく。
平結び、巻き結び、魔力の流路、固定点、解除点。二人の間を、私には半分も理解できない言葉が飛び交っていた。
紬が紐の言葉で話し、シリルが魔法の言葉で返す。噛み合っていないようで、なぜかぴたりと噛み合っている。
私は書架の陰で呆然と立ち尽くしていた。
知っている。この光景には見覚えがある。
前世の教室で、紬がたった一度だけ、同じ顔で誰かと話していたことがあった。手芸部の顧問の先生と、古い織機の構造について。周りの誰もついていけなくて、でも二人だけは本当に楽しそうだった。
興味の対象を、とことんまで突き詰める人同士の会話。
私はシリルの頭上に意識を向けた。
『シリル・ルナティス 好感度 +15』
(じゅうご)
ひと桁じゃない。いきなり二桁だ。
殿下が六、レオンが十。そこへきて十五。しかもまだ上がり続けている。紬が新しい結び目を指さすたびに、ハートがぽんぽんと弾けていく。
これは恋愛のときめきなのだろうか。それとも、ただの知的好奇心なのだろうか。少なくとも、シリルの横顔は恋をしている人のそれには見えない。初めて見る教材を前にした研究者の顔だ。
好感度の仕組み、本当にどうなってるの。
◇ ◇ ◇
閉館を告げる鐘が鳴るころ、机の上は紙の山になっていた。
シリルの描いた魔法陣の拡大図と、紬の描いた結び目の図。その二枚を並べると、線の形はほとんど同じだった。
「……今日は、ここまでだ」
シリルがペンを置く。窓の外はすっかり夕焼けに染まっている。
「あ、そうだ」
帰り支度をしていた紬が、思い出したように顔を上げた。
「最初に調べたかったこと、忘れてました。火精の粘土に、魔力を均一に通す方法が知りたくて」
「火精の粘土?」
「固めるとき、魔力にむらがあると割れそうなので」
シリルは少し考えるように視線を落とし、それから一枚の紙を紬に差し出した。さっき二人で描いた、平結びが規則正しく連なる図だ。
「魔力を流そうとするから偏る。流すのではなく、網目に通すと考えろ」
「網目」
「お前の言う結び目のように、細かく区切って順に通す。理屈の上では、それで均一になるはずだ」
紬の目がぱっと輝いた。
「やってみます」
「結果を知らせろ」
そう言って、シリルは本の山を抱えて立ち上がる。数歩進んだところで、ふと足を止めた。
「……明日も、ここに来い。続きを聞きたい」
振り返らないまま、ぼそりと言い残す。夜色の髪が書架の向こうへ消えていった。
私は書架の陰から這い出し、その場にへたり込んだ。
「陽菜? ずっとそこにいたの?」
「いたよ……最初からずっといたよ……」
明日も来い。続きを聞きたい。
あれはゲームだと、好感度が三十を超えないと出てこない台詞だ。少なくとも、出会った初日に言うような言葉じゃない。
「紬。今の人、誰だかわかってる?」
「魔法陣に詳しい人」
「学年首席の天才魔術師!攻略対象!」
「そうなんだ。話がわかる人だったね」
紬はシリルの描いた図を大事そうに折りたたみ、鞄にしまう。その横顔は、市場で素材を見つけたときと同じくらい満足げだった。
恋の始まりのはずの出会いが、研究仲間の誕生になっている。
私はもう一度、深々とため息をついた。
入学から三日。攻略対象のうち三人と出会い、三人とも好感度が上がり、三人ともまったく恋愛の気配がない。
このゲーム、私の知っている『恋する魔法と王立学園』とは、何かが決定的に違っている。




