第3話 出会いイベント崩壊
私は柱の陰で固まったまま、目の前の光景を信じられない思いで見つめる。
王太子アレクシス殿下。乙女ゲーム『恋する魔法と王立学園』のパッケージ中央を飾る、メインヒーロー。その彼に向かって、ヒロインが開口一番に放った台詞がこれだ。
この結び方、わかります?
選択肢にない。そんな選択肢はどこにもない。
「……結び方?」
殿下が形のいい眉をわずかに寄せる。当然の反応だった。
「はい。巻き結びの変形だと思うんですけど、途中で一回裏に回る理由がわからなくて」
紬は気にした様子もなく、柱の飾り紐を指先で示す。殿下はしばらく紬の顔と紐を見比べていたけれど、やがて小さく息をついた。
「それは結界紐だ。学園を守る結界の要になっている」
「結界」
「むやみに触れるな。素人が下手にいじれば結界が乱れる」
「触りました」
「……何?」
「でも、ほどけませんでした。引っ張っても全然だめで」
殿下の目がすっと細くなる。
「ほどこうとしたのか」
「構造を知りたかったので」
柱の陰で私は膝から崩れ落ちそうになった。
紬。お願いだから黙って。王太子の前で学園の結界をほどこうとしたって自白するヒロインがどこにいるの。
殿下は額に手を当て、長いため息をこぼす。
「結界紐の結び方は宮廷魔術師団の秘伝だ。部外者には教えられない」
「そうですか」
紬はあっさり引き下がる。
よかった、これで話が戻る。ほっとしかけた私の耳に、続く言葉が飛び込んできた。
「じゃあ、紐だけでもどこで手に入るか教えてもらえますか。この光沢、絹じゃないですよね。もっと硬いのに、しなやかで」
「…………」
殿下が完全に言葉を失っている。
画面越しに何度も見てきた、完璧で隙のない王太子殿下。その彼が、ぽかんと口を開けているのだ。こんな表情、スチルにも差分にもなかった。
ちょっとかわいい。いや、そうじゃなくて。
「君は……何者だ」
来た。
ここからは知っている流れだ。名乗ったヒロインに殿下が「編入生か」と返し、迷子だと察して講堂まで案内してくれる。道中のぎこちない会話で、殿下の不器用な優しさが垣間見える名シーン。
頼む紬。せめてここだけは。
「エリシア・ウィンスレットです。今日からこの学園に編入します」
「編入生か。道に迷ったのなら、講堂まで案内——」
「大丈夫です」
紬はきっぱりと首を振った。
「講堂は噴水を抜けて、西の塔の手前ですよね。今朝、門のところの案内図を覚えてきたので」
「……そうか」
「はい」
沈黙ふたたび。
殿下は差し出しかけた手を所在なさげに下ろした。それから、どうにも腑に落ちないという顔で紬を見る。
「では、なぜこんなところにいる」
「この紐が見えたので」
即答だった。
殿下は何か言いかけて口を閉じ、もう一度開いて、結局また閉じる。やがて小さく咳払いをすると、いつもの涼やかな表情を取り戻した。
「入学式は間もなく始まる。遅れないように」
「はい。ありがとうございます」
紬がぺこりと頭を下げると、殿下は踵を返して回廊の奥へ去っていく。
去り際、一度だけ足を止めて振り返ったのが見えた。視線の先にあるのは紬か、それとも柱の結界紐か。どちらとも判別がつかないうちに、金の髪は陽の光の中へ消えていった。
◇ ◇ ◇
「紬ぃぃぃ……!」
足音が完全に聞こえなくなってから、私は柱の陰から転がり出た。
「あ、陽菜。今の人、紐のこと知ってたね。結界紐だって」
「そこじゃない!」
紬の両肩をつかんでがくがくと揺さぶる。
「今の人が誰かわかってる?王太子!この国の王子様! 攻略対象のど真ん中の人!」
「そうなんだ。きれいな人だったね」
「でしょ!?」
「制服の肩章の刺繍、あれ手縫いだよ。金糸の撚りが均一で、すごく腕のいい職人さん」
「そっちを褒めないで!」
息を整えて、私は改めて紬に向き直った。
「いい?今のは出会いイベントっていって、ゲームのいちばん最初の大っ事な場面なの。ここでヒロインが迷子になって、王子様に助けてもらって、そこから恋が始まるの」
「迷子じゃなかったよ」
「だから迷子のふりをするの!」
「なんで?」
まっすぐな目で問い返されて、言葉に詰まる。
「なんでって……恋愛ゲームだから。紬はヒロインだから。好感度を上げて、星祭りの夜に告白されて、ハッピーエンドを迎えるのがゲームの目的なの」
「ふうん」
紬は少しだけ考えるように首をかしげた。
「じゃあ、恋愛しなかったらどうなるの。死ぬ?」
「死なないけど!バッドエンドでも普通に卒業するだけだけど!」
「なら、いいや」
あっさりと言い切って、紬はまっすぐ私を見た。
「私、恋愛はしないよ」
静かで、迷いのない声だった。
「好きな人ができたことないし、作ろうとも思わない。前もそうだったでしょ」
「それは、そうだけど……」
「それより、この世界って知らない素材がたくさんありそう。結界紐の紐もそうだし、さっき通ってきた庭の木も見たことない種類だった。樹皮から繊維が取れるかもしれない」
話しているうちに、紬の若草色の瞳がきらきらと輝き始める。
知っている。この目は知っている。新しい技法を見つけたときの、作り方を思いついたときの、紬のいちばん楽しそうな顔だ。
そんな顔をされたら、もう何も言えない。
私は大きく肩を落とした。
「……わかった。とりあえず今日のところは、もういい」
「うん」
「でも、あきらめたわけじゃないからね。せっかくヒロインに生まれ変わったんだから」
「うん。それより陽菜、入学式」
「あっ」
慌てて立ち上がる。噴水の向こうから、新入生の集合を告げる鐘の音が響いていた。
紬の手を引いて回廊を駆け出す。前世と同じように、ごく自然に。紬も当たり前のように握り返してくる。
回廊を抜ける直前、なんとなく後ろを振り返った。
中庭を挟んだ向こう側の渡り廊下。去ったはずの殿下が、そこに立っていた。こちらを、正確には紬の背中を、じっと見つめている。
そして、その頭の上に。
ぽん、と小さな音がしそうな軽さで、半透明のピンク色のハートが浮かび上がった。
『アレクシス 好感度 +5』
「……は?」
思わず足が止まる。目をこすって、もう一度見る。
消えない。ゲーム画面で何百回も見たのと同じエフェクトで、ハートはふわふわと揺れている。
「陽菜?」
「なんで……」
なんで上がってるの。
出会いイベント、全部ぶち壊したのに。




