第2話 主人公は迷子にならない
指先が紐の上をなぞっている。
結び目をひとつひとつ確かめるように、ゆっくりと。ときどき爪の先で軽く押して締まり具合を見る。紐の端がどこへ消えているのか、柱の裏側まで覗き込む。
あの仕草を、私は十二年間ずっと隣で見てきた。
顔も髪の色も違う。背丈だって少し低い。それでも見間違えるはずがない。
「……紬?」
声がかすれた。
少女の肩がぴくりと動く。けれど振り返らない。視線は飾り紐に釘付けのまま、彼女はこう言った。
「陽菜。ちょうどよかった。これ見て」
あまりにもいつも通りの声。
昼休みの教室で、コンビニの雑誌の棚の前で、何百回と聞いてきた調子そのままだ。
「この結び方、知らないの。巻き結びに似てるけど、途中で一回裏に回ってる。しかも引っ張っても全然ほどけない。どうなってるんだろ」
「…………」
「陽菜?」
ようやく紬がこちらを向いた。
知らない顔だった。ゲームのスチルで何度も見た、ヒロインらしい可憐な顔立ち。大きな瞳は澄んだ若草色をしている。
でも、その瞳に浮かんでいるのは間違いなく紬の表情だ。何を考えているのかわかりにくい、少しだけ眠たげな無表情。
気づいたら駆け出していた。
「つむぎぃぃぃ!」
「わっ」
勢いよく飛びついた私を、紬はよろけながらも受け止めてくれる。
「よかった、よかったぁ……!紬もいた、ちゃんといた……!」
「うん。いる」
「起きたら知らない馬車の中だし、手は空っぽだし、紬がいなかったらどうしようって……!」
「うん」
淡々とした相槌。それなのに、背中に回された腕にはしっかりと力がこもっている。
しばらくして、紬がぽつりとつぶやいた。
「私も、起きたら陽菜がいなかった」
「……え」
「ちゃんと握ってたのに。ほどけないように握ったつもりだったのに」
顔を上げると、紬はほんの少しだけ眉を下げていた。紬にしては珍しい、困ったような顔。
ああ、この子も不安だったんだ。
「……じゃあ、なんで飾り紐なんか見てたの」
「わからないこと考えても仕方ないから。手を動かしてると落ち着くし」
紬らしい。あまりにも紬らしくて、私は泣きながら笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
ひとしきり泣いて落ち着いてから、私たちは回廊の柱の陰に並んで腰を下ろした。
「紬はいつ目が覚めたの?」
「今朝。王都の宿屋のベッドで」
「記憶は?こっちの、エリシアの記憶ってある?」
「ある。伯爵家の娘で、田舎の領地で育って、治癒魔法が使えるらしい。お母さんは小さいころに亡くなってる」
紬はそこで少しだけ言葉を切る。
「エリシアのお母さん、刺繍が上手だったみたい。形見の刺繍糸がトランクに入ってた」
「……そっか」
「あとで見る?すごくいい糸」
最後のひと言で一気に紬に戻る。私は苦笑するしかなかった。
「で、陽菜。ここってどこなの。外国?」
「……紬、落ち着いて聞いてね」
私は深呼吸して、彼女の両肩をつかんだ。
「ここ、ゲームの中の世界なの」
「ゲーム」
「そう。私がハマってた乙女ゲーム。『恋する魔法と王立学園』。覚えてる?コンビニで画面見せたやつ」
紬は少し考えてから、ぽんと手を打った。
「ドレスの裾がボビンレースのやつ」
「覚え方!」
思わず声が裏返る。そこじゃない。絶対にそこじゃない。
「それでね、その主人公の名前がエリシアなの」
「私だね」
「そう、紬なの!紬がヒロインなの!」
「ふうん」
「ふうんって!」
あまりの反応の薄さに頭を抱える。
「ヒロインだよ?攻略対象のイケメンが五人もいて、みんなと恋愛できるんだよ?王太子とか公爵令息とか天才魔術師とか!」
「陽菜は?」
「え?」
「陽菜は何になったの」
まっすぐに聞かれて言葉に詰まる。
「……ハンナ・ミレット。子爵令嬢。ゲームには出てこない、たぶんモブ」
「そっか。じゃあ同じ学校だね」
「う、うん」
「よかった」
それだけ言うと、紬はまた柱の飾り紐に視線を戻してしまった。
ヒロインだとかモブだとか、紬にとってはどうでもいいらしい。大事なのは私が同じ場所にいるかどうか。それだけ。
胸の奥がじんわりと温かくなる。なるけれど、今はそれどころじゃない。
(待って。ここって出会いイベントの場所じゃん)
編入初日、中庭の東の回廊。迷子のエリシアのもとに攻略対象が通りかかる。誰が来るかは直前の選択肢次第だけど、何も選ばなければ決まって——。
こつ、こつ、と石畳を叩く足音が聞こえた。
回廊の向こうから誰かが近づいてくる。規則正しくて迷いのない足取り。
「紬、紬!誰か来る!」
「うん。足音するね」
「たぶん攻略対象!出会いイベント!ちゃんとヒロインっぽくして!」
「ヒロインっぽくって何」
「迷子っぽく!不安げに!ちょっと涙目で!」
「迷子じゃないよ。寄り道してただけ」
「そういうことじゃなくて!」
小声で言い争っているうちに、足音はすぐそこまで迫っていた。私は慌てて紬から離れ、近くの柱の陰に身を隠す。モブがヒロインの隣にいたら、イベントが台無しになるかもしれない。
柱の陰からそっと覗くと、陽の光の中にひとりの青年が姿を現した。
さらりと流れる金の髪。深い青の瞳。乱れひとつない制服の胸元には、王家の紋章が光っている。
嘘でしょ。いきなり本命。
アレクシス・フォン・アルディア。この国の王太子にして、私の最推し!
「そこで何をしている」
低く澄んだ声が回廊に響く。
ゲームと同じ台詞。一字一句違わない。私は柱にしがみつき、叫び出しそうになる口を両手で押さえた。
さあ紬、ここで選択肢だよ。「道に迷ってしまって……」を選べば王道ルート一直線。
紬はゆっくりと振り返り、王太子の顔をじっと見つめて——。
それから、柱の飾り紐を指さした。
「すみません。この結び方、わかります?」




