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乙女ゲームのヒロインが「恋愛はしません、工房は開きます」と言い出したので、モブ令嬢の私は頭を抱えています  作者: 霜山ナイト


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第1話 目覚めたら乙女ゲーム

 がたん、と体が大きく揺れた。


 反射的に目を開ける。視界に飛び込んできたのは、深緑のビロードが張られた狭い天井だった。


「お嬢様? お目覚めになりましたか」


 向かいの座席から穏やかな声がかかる。白いエプロンをつけた年配の女性が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。


 お嬢様。


 誰のことだろう。きょろきょろと周りを見回して、ここには私と彼女しかいないらしいと気づく。窓の外を流れていくのは石畳と煉瓦の街並み。かすかに聞こえる規則正しい音は、たぶん馬の蹄だ。


 馬車。私、馬車に乗ってる?


「あの……」


 口を開いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 知らない記憶が洪水みたいに流れ込んでくる。


 ミレット子爵家の屋敷。庭の林檎の木。三つ上の兄と喧嘩して泣いた日のこと。家庭教師に叱られながら覚えた礼儀作法。初めての舞踏会で踏んでしまった、誰かの靴のつま先。


 ハンナ・ミレット。十六歳。


 それが私の名前だと、知らないはずの記憶が告げている。

 けれど同時に、もうひとつの記憶もちゃんと残っていた。朝倉陽菜。高校二年生。ゲームと漫画が好きで、幼馴染の紬と毎日のようにコンビニに寄っていた。


 コンビニ。

 ヘッドライト。ガラスの砕ける音。握り返された手。


「……っ」


 思わず自分の右手を見下ろす。白くて細い、見覚えのない手。爪の形まで違う。


 そこには何も握られていなかった。


「お嬢様、お顔の色が。やはり馬車酔いでしょうか」


「だ、大丈夫。ちょっと夢見が悪かっただけ」


 とっさに答えた自分の声も、聞き慣れたものより少しだけ高い。侍女のマーサ——ハンナの記憶がすんなりと名前を教えてくれる——は、ほっとしたように息をついた。

 私は窓の外に視線を逃がし、スカートをぎゅっと握りしめる。


 落ち着け。落ち着け、私。


 状況を整理しよう。漫画もラノベも人並み以上に読んできたのだ。こういう展開には覚えがある。


 事故に遭って、目が覚めたら別人になっていた。しかも馬車に侍女に子爵令嬢。


 これはもう、どう考えても。


(異世界転生ってやつ、だよね……?)


 口に出したら正気を疑われそうなので、心の中だけでつぶやく。

 物語の中では何度も見てきた言葉だ。でも、まさか自分の身に起こるなんて。


 だとしたら、元の世界の私は——。


 考えかけて首を振る。今はやめておこう。考えたら動けなくなる気がした。

 それより気になるのは紬のことだ。あの瞬間、私は紬の手を握っていた。紬も握り返してくれていた。

 だったら紬も、もしかしたら。


「お嬢様、見えてまいりましたよ」


 マーサの声に顔を上げる。

 馬車はちょうど長い坂を上りきったところだった。窓の向こうに白亜の建物が姿を現す。

 空に向かって伸びる尖塔。青い屋根の連なり。正門の上では、翼を広げた女神の紋章が金色に輝いている。


 その光景を目にした瞬間、私は息をのんだ。


 知っている。


 私はこの景色を知っている。

 何十回、何百回と見た。スマホの画面いっぱいに映し出されるタイトル画面。花びらが舞う中、ゆっくりとズームしていく白亜の学園。そこに流れるピアノの旋律まで、耳の奥で鮮やかに再生される。


「王立セレスティア学園……」


 声が震えた。

 間違いない。ここは私がどっぷりハマっていた乙女ゲーム『恋する魔法と王立学園』の舞台だ。


「ええ。今日からお嬢様もこちらの生徒ですね。旦那様も奥様もそれはそれはお喜びで」


 マーサが何か言っているけれど、半分も頭に入ってこない。


(え、待って。待って待って待って)


 心臓がバクバクとうるさい。

 ということは、いるのだ。この学園に。


 完璧主義の王太子アレクシス様。意地悪で優しい公爵令息レオン。天才魔術師のシリル。頼れる騎士の先輩ユリウス。そして隠し攻略対象のノア。


 画面越しに何度もときめいた彼らが、この塀の向こうで生きている。


「……やばい」

「お嬢様?」


「なんでもない!」


 顔がにやけそうになるのを必死にこらえる。


 死んだかもしれないとか、家族にもう会えないかもしれないとか、考えなきゃいけないことは山ほどあるはずだ。わかっている。それでも推しのいる世界に来てしまったという事実だけは、どうしたって胸が躍ってしまう。


 オタクの業って本当に深い。

 そこでふと、冷静な疑問が頭をもたげた。


 で、私は誰なんだろう。


 ハンナ・ミレット。子爵家の令嬢。記憶をどれだけひっくり返しても、ゲームにそんな名前のキャラクターは出てこない。立ち絵どころか、背景に描かれた生徒のひとりですらなかった気がする。


 つまり。


(モブだ、私)


 しかも名前すら設定されていないタイプの。

 ちょっとだけがっかりして、すぐに思い直す。むしろモブで良かったのかもしれない。主人公でも悪役でもないなら、破滅フラグに怯える必要もない。特等席で推しを眺め放題だ。


 そうだ、主人公。


 このゲームの主人公は、今年から学園に編入してくる伯爵令嬢エリシア。治癒魔法の才能を認められて、地方の領地からやってくる女の子だ。

 編入初日、彼女は広い学園で迷子になる。そこへ攻略対象の誰かが通りかかり、運命の出会いを果たす。プロローグの名シーンで、私も何度もやり直した場面。

 今日が編入初日なら、そのイベントは今日起こる。


 馬車が正門をくぐり、ゆっくりと停まった。マーサが扉を開けるより早く、私は身を乗り出す。


「マーサ、荷物お願い!ちょっと見てくる!」


「お、お嬢様!?」


 ドレスの裾をつまんで石畳に飛び降りる。新入生とその家族でごった返す前庭を抜け、記憶にある道を走った。


 中庭の東側、噴水の奥にある回廊。迷子のエリシアが途方に暮れて立ち尽くす場所だ。


 この目で主人公を見てみたかった。そして心のどこかで、ほんの少しだけ期待していた。

 あの事故のとき、私の手を握り返したもう一人のことを。


 回廊の角を曲がる。


 いた。


 柱と柱の間に、ひとりの少女が立っている。陽の光を受けて淡く輝く亜麻色の髪。ゲームで何度も見たエリシアの立ち姿そのものだ。


 けれど、何かがおかしい。


 ゲームのエリシアは不安げに辺りを見回しているはずだった。地図を握りしめて、今にも泣きそうな顔で。


 目の前の少女は違う。


 回廊の柱に巻きつけられた飾り紐の前で、彼女はぴくりとも動かない。顔を近づけ、首をかしげ、また近づける。迷子の不安なんてかけらも感じさせない、ものすごく真剣な横顔。


 その横顔に、私は見覚えがあった。

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