第17話 イベント同時多発
視界の端に、五つの枠が縦一列に並んでいる。それぞれの下で、小さな砂時計の絵がくるくると回っていた。ゲームで見たことがある。イベントが進行中であることを示す印だ。
(落ち着け。落ち着け、私)
私は帳簿の机の陰にしゃがみ込み、必死に記憶をたどった。
第二章の共同作業イベントは、攻略対象ごとに決まった場面がある。ゲームでは喫茶店の準備中に、ひとりずつ順番に起こるものだった。間違っても、全員同時に起こるようなものではない。
殿下は、飾り付けの最中。高いところに看板を掛けようとしたヒロインが脚立から落ちかけて、殿下が抱きとめる。
レオンは、看板の色塗り。ヒロインの頬に絵の具がついて、レオンが笑いながら指で拭ってくれる。
ユリウス先輩は、重い荷物の運搬。ヒロインがひとりで木箱を運ぼうとしているところに、先輩が黙って手を差し伸べる。
シリルは、照明の設置。魔法陣を使った灯りを、ヒロインと二人で調整する。指先が触れ合って、シリルが慌てて手を引っ込める。
そして、ノア。
五つ目の通知だけは、名前が伏せ字になっていた。私はノアのルートを知らない。何が起こるのか、まったく見当もつかなかった。
そのとき、目の前に新しい枠がぽんと開いた。
『アレクシス:どうする?
▶ 脚立に上る
▶ 誰かに頼む』
(選択肢!?)
私は思わず目をこすった。ゲームのときと同じ、選択肢の画面。ヒロインの行動を選ぶための。
でも、この選択肢を選べるのは私じゃない。選ぶのは紬だ。そして紬は、そもそもこの画面が見えていない。
◇ ◇ ◇
「看板、掛けちゃいます」
教室の前方で、紬が脚立を引きずってきた。
手には、クラスで作った看板が抱えられている。端切れの布を継ぎ合わせて、組紐で縁取りをした大きな看板だ。真ん中に刺繍で『手作り雑貨工房』の文字が入っている。エマさんが三日かけて刺したものだ。
(来た! 脚立に上る!)
紬が脚立の一段目に足をかける。二段目。三段目。
看板を掛ける釘は、天井近くの梁に打ってあった。紬が背伸びをして手を伸ばす。脚立がぐらりと揺れた。
教室の奥で、殿下がろくろから顔を上げる。手が泥だらけのまま、すっと立ち上がった。
(そう!そのまま抱きとめて!)
殿下が駆け寄る。紬の身体が傾く。
次の瞬間、紬の指先から何かがしゅるりと伸びた。
若草色に光る、細い糸。
糸は一直線に梁へ向かい、くるりと巻きついた。紬の手首と梁が、光の糸で結ばれる。傾いた身体が、ぴたりと止まった。
「……あ、危なかった」
紬は糸にぶら下がるようにして体勢を立て直すと、何事もなかったかのように看板を釘に掛けた。それから糸をくいっと引いて、するりとほどく。結び目は、引けば一気にほどける引き解け結びになっていた。
両腕を広げたまま、殿下が脚立の下で固まっていた。
「……」
「あ、殿下。すみません、手、泥がついたままですよ」
「……ああ」
殿下はゆっくりと腕を下ろし、ろくろの前に戻っていった。
『アレクシス:共同作業イベント 結果 ??? 好感度 +6』
(成立してないのに上がってる!?)
抱きとめていない。抱きとめられていない。なのにハートはしっかり弾けていた。殿下は再びろくろを蹴りながら、ちらりと梁を見上げている。光の糸が巻きついていた場所を。
息をつく間もなく、次の枠が開いた。
『レオン:どうする?
▶ 一緒に色を塗る
▶ 見守る』
◇ ◇ ◇
帳簿を書き終えたレオンは、看板とは別の、廊下に出す案内板の色塗りを手伝わされていた。クラリスさんの采配だ。
「なんで俺が絵の具なんか……」
文句を言いながらも、レオンは器用に筆を動かしていた。何でもそこそこできるという言葉に嘘はない。案内板の文字は、それなりに見栄えのする仕上がりになっていく。
紬が、レオンの隣にしゃがみ込んだ。
「レオン様、上手ですね」
「ふん、これくらい……」
照れくさそうに顔を背けた拍子に、レオンの筆が跳ねた。絵の具のしずくが、ぺちゃりと飛ぶ。
レオン自身の頬に。
(逆!)
ゲームでは、絵の具がつくのはヒロインの頬だ。それをレオンが笑いながら拭ってくれる。そこから二人の距離が少しだけ縮まる、レオンルート屈指の名場面。
それが、完全に逆になっていた。
「あ」
紬は懐からハンカチを取り出した。殿下に渡したのと同じ、刺繍入りの練習用ハンカチだ。そして何のためらいもなく、レオンの頬についた絵の具をごしごしと拭った。
「っ……!?」
「この絵の具、乾くと落ちにくいので。すぐ拭いたほうがいいです」
「じ、自分でやる!」
「もう取れました」
紬はハンカチをたたんで、また懐にしまった。
レオンは頬を押さえたまま、真っ赤になって固まっている。赤い絵の具は、もうついていない。それなのに、頬は絵の具よりも赤かった。
『レオン:共同作業イベント 結果 ??? 好感度 +14』
ハートが三つくらい、立て続けに弾けた。
◇ ◇ ◇
『ユリウス:どうする?
▶ ひとりで運ぶ
▶ 助けを呼ぶ』
教室の外の廊下に、木箱が山積みになっていた。市場で買い足した火精の粘土だ。ひと箱で私の体重くらいはある。
紬は木箱の前で腕組みをしていた。ひとりで運ぶつもりなのか、とひやひやしたけれど、紬はしばらく考えたあと、教室の隅から何かを引っ張ってきた。
板に小さな車輪を四つ取りつけた、平たい台車だった。ろくろを作ったときに余った車輪の部品で、いつの間にか作っていたらしい。
「ユリウス先輩、ちょっと手伝ってもらえますか」
「ああ、もちろん」
紬に呼ばれて、先輩が騎士たちの輪から抜けてきた。
「この箱、台車に載せたいんです。持ち上げるところだけ、お願いできますか」
「わかった」
先輩は木箱をひょいと持ち上げ、台車の上に載せる。ひと箱、ふた箱、三箱。紬が台車の向きを調整し、先輩が箱を積む。紬が押し、先輩が支えて、教室の中まで運び込む。
手を差し伸べる場面はなかった。代わりに、二人は息の合った共同作業をしていた。文字通りの意味で。
先輩がかすかに笑った。
『ユリウス:共同作業イベント 結果 ??? 好感度 +7』
◇ ◇ ◇
『シリル:どうする?
▶ 灯りの位置を決める
▶ 灯りの色を決める』
シリルは依頼書の分類を終えると、教室の天井を見上げていた。学園祭では、教室に魔法の灯りを吊るして飾りにする予定だった。その魔法陣を描く役目を、いつの間にかシリルが引き受けていた。
「普通の照明陣では、光がまっすぐ下に落ちすぎる。作品を見せるには、もう少し拡散させたい」
「だったら、こういうのはどうですか」
紬は懐から糸を取り出すと、するすると何かを編み始めた。マクラメの技法で、透かし模様の入った袋状のものを作っていく。灯りを包むための、網の笠だ。
「魔法陣の光を、これで包むんです。網目を通ると、光が細かく分かれて広がる」
「……網目の密度で、拡散の度合いを調整できるのか」
「はい。たぶん」
シリルは網の笠を受け取ると、すぐに照明の魔法陣を描いて、その中に光を灯した。
教室の天井に、柔らかな光の模様が広がった。
網目を通った光が、星のように細かく散らばっている。作業台の上の糸や蝋燭や器を、やさしく照らしていく。誰からともなく、教室のあちこちで「わあ」と小さな歓声が上がった。
指先が触れ合う場面はなかった。ただ二人は、並んで天井を見上げていた。
「……美しいな」
シリルがぽつりとつぶやく。視線は、天井の光の模様に向けられたまま。
「はい。シリル様の魔法陣と、網目の相性がいいんだと思います」
『シリル:共同作業イベント 結果 ??? 好感度 +9』
◇ ◇ ◇
四つの枠が閉じ、残るはひとつ。
『???:どうする?
▶ ???
▶ ???』
選択肢まで伏せ字だった。
私は息を詰めて、ノアの姿を探した。
ノアは、教室の窓際の作業台にいた。紬の隣に、いつの間にか椅子を引き寄せて座っている。
「ねえエリシア。僕にも何か教えてよ」
「何がいいですか」
「そうだなあ」
ノアは紫の瞳を細めて、紬の手首を見た。そこには、結界紐の結び方を織り込んだ、あのブレスレットが巻かれている。
「それがいいな。その結び方」
紬は少しだけ首をかしげたけれど、素直にうなずいた。糸を二本取り出して、ノアの前で結んでみせる。巻き結びに似ていて、途中で一度だけ裏に回る結び目。
「ここで、一回裏に回します。ここが一番難しいところです」
「へえ。こう?」
ノアは糸を手に取った。
そして、一度も迷うことなく、その結び目を結んでみせた。
完璧だった。紬が三週間かけて、シリルと一緒にようやく再現した結び目。それをノアは、たった一度見ただけで、紬と寸分違わない形に結び上げていた。
紬の手が、止まった。
「……上手ですね」
「そう?初めてやったんだけど」
ノアはにっこりと笑う。その笑顔には、少しの曇りもなかった。
初めて、のはずがない。
私の背筋に、冷たいものが走った。
『???:共同作業イベント 結果 ??? 好感度 ???』
何も読めなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、私はベッドに倒れ込んだまま、ぴくりとも動けなかった。
五つのイベント。五つの「???」。すべてゲームの筋書きどおりには進まず、それなのに全員の好感度はしっかり上がっていた。
しかも、上がったのはハートが弾けた分だけではない。工房で、図書館で、訓練場で。毎日のように顔を合わせるうちに、数字は少しずつ積み重なっていたらしい。
殿下、八十六。シリル、八十四。ユリウス先輩、七十九。レオン、七十二。ノアは、相変わらず読めない。
ゲームなら、とっくに誰かのルートに入っている数字だ。それが全員、仲良く横並びで。
(白目むきそう……)
「陽菜、大丈夫?」
隣のベッドから、紬の声がした。
「……大丈夫じゃない……」
「疲れたね。今日」
「紬は疲れてないの……?」
「疲れたよ。でも」
紬は少しだけ黙った。窓から差し込む月明かりが、紬の横顔をぼんやりと照らしている。
「楽しかった」
ぽつりと、紬が言った。
「みんなで作るの。今まで、あんまりやったことなかったから」
私は、ゆっくりと身体を起こした。
前世の紬は、いつもひとりで作っていた。教室の一番うしろの席で、誰にも邪魔されずに。それで平気だったし、本当に平気そうだった。
でも今日の紬は、殿下にろくろを教え、レオンの頬を拭い、先輩と台車を押し、シリルと灯りを作り、ノアに結び目を教えた。騎士たちに囲まれ、クラスメイトたちと笑い合った。
ひとりじゃなかった。
「……そっか」
私は、手首の橙色のブレスレットをそっと握った。
「よかったね、紬」
「うん」
紬が小さくうなずく。それから、ころんと寝返りを打った。
「明日、学園祭だね」
「……うん」
ノアの完璧な結び目が、まぶたの裏に焼きついていた。初めてだと言って笑った、曇りのない笑顔も。
気になることは山ほどある。でも、今夜だけは考えないことにした。
明日は、紬がみんなと作った工房の、初めての開店日なのだから。




