第15話 ろくろにハマる王太子
教室の空気が、凍りついていた。
王太子殿下が、学園祭の準備中の教室に立っている。それだけで、居残っていたクラスメイトたちは全員その場で直立不動になっていた。布を広げていた女子は布を持ったまま。机を運んでいた男子は机を抱えたまま。
クラリスさんだけがさすがの落ち着きで、一歩前に進み出た。
「ようこそおいでくださいました、殿下。学級委員のクラリス・ベルナールです。出し物の概要をご説明いたします」
「頼む」
クラリスさんの説明を聞きながら、殿下は教室の中をゆっくりと見て回った。
窓際には、編み物と組紐の作業台。その隣が刺繍の作業台で、エマさんが緊張で真っ青になりながら、自分の作った見本を並べている。中央は蝋燭作りの場所で、湯せん用の鍋と型がずらりと用意されていた。
殿下はひとつひとつ、丁寧に足を止めて眺めていく。
「これは、先日の温室の葉か」
編み物の作業台で、殿下がふと手を止めた。机の上に、薄い黄みがかった布の切れ端が置いてある。
「はい。葉っぱから繊維を取って、織ってみました。まだ試しなので、目が粗いですけど」
紬が布を手に取ってみせる。光にかざすと、繊維が透けて見えるほど薄い。それでいて、引っ張ってもびくともしない。
「出来たら見せてくれ、と言っていたので」
「……覚えていたのか」
「はい。約束したので」
殿下はしばらく、布の切れ端を手のひらに載せて眺めていた。
そして最後に、教室の一番奥へと視線を向ける。
そこには、奇妙なものが置かれていた。
◇ ◇ ◇
「これは、何だ」
殿下が見下ろしているのは、木と鉄でできた不格好な台だった。
床に据えた太い木の軸。その上に、丸い板が水平に取りつけられている。軸の下のほうには、荷馬車の車輪がひとつ、同じく水平に固定されていた。
「ろくろです」
紬が、少しだけ誇らしげに答えた。
「焼き物の形を作る道具です。上の板に粘土を載せて、下の車輪を足で蹴って回すんです」
「ろくろ……陶工の工房にあるものか」
「はい。でも工房のろくろは高くて、予算じゃとても買えなかったので。作りました」
作りました。
そのひと言の裏に、どれだけの苦労があったか。私はよく知っている。
この一週間、紬は寝る前に毎晩、ろくろの図面を描いていた。前世で通っていた陶芸教室の蹴ろくろを思い出しながら、何十枚も。軸の太さ、板の重さ、車輪の大きさ。回転が安定しなければ、粘土の形はすぐに崩れてしまう。
材料は、市場の荷車屋で売り物にならなくなった古い車輪をもらってきた。軸と板は、騎士科の生徒たちが武具の修理のついでに削ってくれた。ユリウス先輩の飾り紐を直して以来、騎士科には妙に紬を慕う人が増えているのだ。
作れなさそうなものは、どうやったら作れるかを考える。
紬は、本当にそれをやってのけた。
「一度、回してみてもいいか」
殿下の言葉に、教室中がざわめいた。
「殿下が、ろくろを……?」
「お召し物が汚れてしまいます!」
クラリスさんが慌てて止めに入る。けれど殿下は、穏やかに首を振った。
「構わない。視察とは、見るだけのものではないだろう」
そう言って、制服の上着を脱いで椅子の背にかける。袖をまくり上げる仕草が、いやに様になっていた。
紬はこくりとうなずき、粘土の塊をひとつ持ってきた。火精の粘土だ。
「まず、粘土を板の真ん中に置きます。それから車輪を蹴って回して、粘土を真ん中に寄せます。芯出し、っていいます」
「芯出し」
「粘土の中心と、ろくろの中心を合わせるんです。ここがずれてると、どんなに頑張っても形が歪みます。一番大事で、一番難しいところです」
殿下は紬に言われたとおり、板の中央に粘土を据えた。足で車輪を蹴る。ごろごろと重い音を立てて、板が回り始める。
両手を水で濡らし、回転する粘土を包み込む。
次の瞬間、粘土がぐにゃりと大きく傾いた。
「っ……」
殿下の手の中で、粘土は右へ左へとよろめく。押さえ込もうとすればするほど、暴れるように揺れが大きくなる。やがて、ぼとりと音を立てて、粘土は板から転がり落ちた。
教室がしんと静まり返る。
殿下は、自分の泥だらけの両手を見下ろしていた。
「……もう一度」
◇ ◇ ◇
一時間が過ぎた。
殿下はまだ、ろくろの前に座っていた。
粘土は相変わらず言うことを聞かない。傾き、よろめき、ときには板から飛び出して床を転がる。そのたびに殿下は無言で拾い上げ、もう一度板の中央に据える。
「力が入りすぎてます。押さえつけるんじゃなくて、粘土が自分から真ん中に来るのを待つ感じで」
「待つ……」
「はい。肘を膝に当てて、腕を固定すると楽です」
紬は殿下の隣にしゃがみ込み、ときどき短く助言を挟んでいた。手を添えたりはしない。ただ言葉で伝えて、あとは殿下の手に任せる。前世の陶芸教室の先生が、紬にそうしていたように。
クラスメイトたちは、もう自分の作業に戻っていた。最初は遠巻きにおそるおそる見守っていたけれど、殿下があまりにも黙々とろくろに向かっているので、だんだん慣れてしまったらしい。
私は刺繍の作業台の陰から、その様子を見守っていた。
『アレクシス・フォン・アルディア 好感度 68』
数字は少しずつ上がっている。でも、それ以上に気になるのは殿下の横顔だった。
眉間にしわを寄せて、唇を引き結んで、泥まみれの手で粘土と格闘している。完璧な王太子殿下の面影はどこにもない。ただ、うまくいかないことにむきになっている、ひとりの男の人の顔だ。
二時間が過ぎた。窓の外が茜色に染まり始める。
教室の扉の外では、殿下の侍従らしき人が困り果てた顔で行ったり来たりしていた。殿下は一度も振り返らなかった。
そして。
「……あ」
小さな声が漏れた。
殿下の手の中で、粘土が静かに回っていた。
揺れていない。傾いてもいない。ろくろの回転と粘土の回転が、ぴたりと重なっている。止まっているように見えるほど、滑らかに。
芯が、出たのだ。
「できてます」
紬が、ほんの少しだけ声を弾ませた。
「王子様、手が覚えましたね」
殿下は答えなかった。ただ、手の中で回り続ける粘土を、じっと見つめていた。
それから、ふっと肩の力が抜けた。
「……王宮では」
ぽつりと、殿下が口を開いた。
「何をするにも、誰かが見ている。俺が完璧であることを、皆が求めている。少しでも揺らげば、それは王家の揺らぎになる」
ろくろの回る音だけが、静かに響いている。
「だが、この粘土は違うな。俺が王太子だろうと何だろうと、手が正しくなければ、こいつは決して言うことを聞かない」
殿下の口元に、かすかな笑みが浮かんでいた。
「それが、妙に心地いい」
紬はしばらく黙って殿下の手元を見ていた。それから、こくりとうなずく。
「粘土は、手しか見てないので」
「……ああ。そのようだ」
殿下の笑みが、少しだけ深くなった。
温室で、殿下は言っていた。紬は自分を王太子として見ていない。手の届くところにあるものだけを見ている。それがひどく楽なのだと。
この粘土も、きっと同じなのだ。
「ウィンスレット」
「はい」
「学園祭までの間、また来てもいいか」
「いつでもどうぞ。ろくろ、空いてるときなら」
殿下は小さくうなずき、ようやく泥だらけの手を水桶で洗い始めた。
『アレクシス 好感度 +12』
◇ ◇ ◇
それから殿下は、本当に毎日やってきた。
公務がある日は夕方遅くに。ない日は昼休みから。上着を脱ぎ、袖をまくって、黙々とろくろを蹴る。三日目には湯呑みのような小さな器が引けるようになり、五日目には紬に「縁の厚みが均一になってきました」と言われて、本気で嬉しそうな顔をしていた。
クラスメイトたちはすっかり慣れて、殿下の隣で平然と蝋燭を作っている。レオンだけが、ろくろに向かう殿下を見るたびに「なんで俺は荷物持ちで、王太子は弟子なんだよ……」とぼやいていた。
私はある夜、ベッドの中で、ふと気づいた。
殿下の目の下の隈が、消えている。
紬が琥珀色の蝋燭を渡したあの日、殿下の目の下にはうっすらと影が落ちていた。眠れていないのだと、紬は見抜いた。
その影が、いつの間にかなくなっていた。
恋をしたからじゃない。ろくろの前で、何も考えずに手を動かす時間ができたから。粘土と向き合っている間だけは、王太子でいなくてもよかったから。
ゲームの殿下は、ヒロインとの恋で救われる。でもこの世界の殿下は、ヒロインの作ったろくろで救われている。
それがいいことなのか、悪いことなのか。私にはまだわからない。
ただ、殿下が粘土を前にして笑う顔は、ゲームのどのスチルよりも楽しそうだった。
◇ ◇ ◇
学園祭まで、あと二週間。
その日の放課後、教室の扉が勢いよく開いた。
「すまない、ウィンスレット」
息を切らせて飛び込んできたのは、ユリウス先輩だった。いつも冷静な先輩が、珍しく額に汗を浮かべている。
その腕には、紙の束が抱えられていた。厚さにして、ざっと指三本分。
「止められなかった」
「何がですか」
先輩は無言で、紙の束を机の上に置いた。
一番上の紙には、こう書かれていた。
『剣帯の修繕依頼 騎士科二年 ロイド・ハーゲン』
その下の紙にも。その下の紙にも。
『籠手の革紐の交換依頼』
『剣の飾り紐の新規作成依頼(恋人の髪の色で)』
『盾の持ち手の巻き直し依頼』
「騎士科の連中が、どうしても頼みたいと言ってきかなくてな」
先輩は額の汗を拭いながら、申し訳なさそうに肩を落とした。
「全部で、四十七件ある」




