第11話 早すぎる隠しキャラ
月曜の朝、教室はいつになく浮き足立っていた。
「ねえ聞いた? 隣国の王子様が来るって」
「留学生でしょ? どのクラスに入るのかな」
「すっごく綺麗な人らしいよ。王都に着いたとき、馬車の窓から手を振ってたって」
殿下は「まだ公にはなっていない」と言っていたけれど、噂というのは止められないものらしい。女子生徒たちの話題は朝からそれ一色だった。
私は自分の席で、両手で頭を抱えていた。
(どうしよう……)
ノア・フェルディナント。隣国の王族で、交換留学生。自由奔放でミステリアスな、隠し攻略対象。
問題はひとつ。
私は、ノアのルートをやったことがない。
隠しルートは、四人全員のハッピーエンドを見て初めて解放される。前世の私が見終えていたのはシリルとユリウス先輩とレオンの三人だけ。殿下のルートは、あの日コンビニで紬に画面を見せていた、まさにその途中だった。
つまり、ノアが何者で、何を企んでいて、どんな物語を背負っているのか。私は何ひとつ知らないのだ。
攻略サイトのネタバレを見ておけばよかった。自力で全部解放するんだと意地を張っていた前世の自分を、今さらながら恨む。
知っているのは、公式サイトに載っていた紹介文だけ。隣国の王位継承問題と、主人公の治癒魔法に隠された秘密。それがノアのルートで明かされる、ということだけだ。
「陽菜、どうしたの。お腹痛い?」
隣の席から紬が覗き込んでくる。今日も手元では、細い糸がするすると結ばれていた。
「……ううん。ちょっと考えごと」
「ふうん」
紬はそれ以上聞かずに、また手元に目を戻す。
そのとき、教室の扉が開いた。
◇ ◇ ◇
担任の先生に続いて入ってきた少年を見た瞬間、教室中の空気が止まった。
月の光を集めたような銀の髪。肩にかかるほどの長さを、無造作に後ろでひとつに束ねている。猫のように細められた紫の瞳。制服を少し着崩していて、それがかえって絵になっていた。
「隣国フェルディナント王国からの交換留学生だ。今日からこのクラスで共に学ぶことになる」
「ノア・フェルディナントです。よろしくね」
ノアはひらひらと片手を振ってみせた。王族とは思えないほど軽やかな挨拶。女子生徒たちの間から、ため息のような歓声が漏れる。
私はおそるおそる、彼の頭上に意識を向けた。
『ノア・フェルディナント 好感度 ???』
(そこも伏せ字なの!?)
紬の治癒魔法と同じだ。数字が読めない。隠しキャラだからなのか、それとも別の理由があるのか。
「席は……そうだな、ヴァレンシュタインの隣が空いているな」
「はーい」
ノアは軽い足取りで教室の後方へ向かう。レオンの隣の席に鞄を放り出すと、なぜか座らずに通路を引き返してきた。
そして、紬の机の横でぴたりと足を止める。
「ねえ、君」
紬は顔を上げない。指先は糸を結び続けている。
「君だよ、亜麻色の髪の君。さっきから、ずっと何か結んでるよね」
「はい」
「僕が入ってきても、一度も顔を上げなかった。こんなに目立つ自己紹介をしたのに」
ノアはどこか楽しげに、机の端に腰をかけた。教室がざわめく。初対面の令嬢の机に、断りもなく座る王族。
「おい、留学生。座る場所が違うだろ」
後ろの席からレオンが不機嫌そうな声を飛ばした。ノアは振り返りもせずに、ひらひらと手を振る。
「ごめんごめん。ちょっと気になっちゃって」
「気になったからって、人の机に座んな」
「レオン様、大丈夫です。机は作業台じゃないので」
「そういう問題じゃねえ!」
紬の的外れな擁護に、レオンが頭をかきむしる。
ノアは小さく吹き出して、それから紬の手元を覗き込んだ。
「それで、何を作ってるの?」
「ブレスレットです」
「へえ。見せてもらってもいい?」
紬はようやく手を止め、作りかけのブレスレットを机の上に広げた。
霧山羊の毛糸を何本も使った、細い帯状の編み物だ。ただ普通のマクラメとは少し違う。等間隔に、見慣れない結び目が埋め込まれている。
巻き結びに似ているけれど、途中で一度だけ裏に回っている結び目。
入学式の日、紬が中庭の回廊で見つけた、あの結界紐と同じ結び方だった。
三週間、紬はシリルと毎日この結び目について議論していた。魔法陣の図を読み解き、何十回も紐で試し、ようやく先週、自分の手で再現できるようになったのだ。
ノアの表情が、すっと消えた。
さっきまでの軽薄な笑みが、嘘のように剥がれ落ちる。紫の瞳が、ブレスレットの結び目に釘付けになっていた。
「……その結び方、どこで覚えた」
低い声だった。教室の喧騒の中で、私と紬にしか聞こえないくらいの。
「中庭の柱の紐を見て、自分で考えました」
「考えた?」
「はい。最初はほどこうとしたんですけど、ほどけなかったので。どうやって結んでるのか知りたくて」
ノアは何も言わなかった。
ただじっと、紬の顔を見つめている。値踏みするような、何かを確かめるような目で。
やがて、ノアはふっと息を吐いた。口元に、さっきとは違う種類の笑みが浮かぶ。
「面白いね、君」
その言葉と同時に、頭上の伏せ字が一瞬だけ揺らいだ。
『ノア・フェルディナント 好感度 1』
そしてすぐに、また『???』に戻る。
見間違いかと思った。でも確かに、一瞬だけ数字が見えた。
「名前、聞いてもいい?」
「エリシア・ウィンスレットです」
「エリシア、ね」
ノアはその名前を、確かめるように口の中で転がした。
「僕の国ではね、その結び方には別の名前があるんだ」
「別の名前?」
「うん。でも、今はまだ内緒」
ノアは人差し指を唇に当てて、いたずらっぽく片目をつぶる。それから机から降りて、ひらひらと手を振りながら自分の席へ戻っていった。
「また見せてね、エリシア」
◇ ◇ ◇
昼休み。私は紬の腕を引いて、人気のない中庭の隅に連れ出した。
「紬。さっきの留学生には気をつけて」
「なんで?」
「なんでって……」
言葉に詰まる。ノアのルートを知らない以上、何に気をつければいいのかすら説明できない。
「あの人、たぶんこのゲームの重要人物なの。隠しキャラっていって、最後のほうにならないと出てこないはずの人。それが、こんなに早く出てきちゃった」
「ふうん」
「それに、紬のあの結び目を見たときの顔。普通じゃなかった」
紬は少し考えるように、手元の作りかけのブレスレットを見下ろした。
「別の名前がある、って言ってたね」
「うん」
「どんな名前なんだろ」
その声には、ほんのかすかに好奇心がにじんでいた。
まずい。紬が興味を持ってしまった。紬が何かに興味を持ったら、とことんまで突き詰めずにはいられない。それは十二年の付き合いで、誰よりも私がよく知っている。
「……紬。お願いだから、あの人には近づきすぎないでね」
「うん。でも、結び目の話は聞きたい」
「紬ぃ……」
私はがっくりと肩を落とした。
隣国の王位継承問題。主人公の治癒魔法に隠された秘密。
公式サイトの紹介文が頭の中をぐるぐると回る。伏せ字の治癒魔法。点滅する器用さ。宮廷魔術師団の秘伝の結び目と、それを見た隣国の王子の顔。
何かが、静かに動き始めている。
そして私は、その先の物語を知らない。




