第10話 陽菜の攻略大作戦
週末の夜。紬が寝息を立て始めたのを確かめてから、私はそっとランプを灯した。
机の上に広げたのは、こっそり買っておいたノートだ。表紙には大きくこう書いてある。
『エリシア恋愛攻略計画書』
四人の中からひとりを選ぶ。昨夜そう決めてから、私は丸一日悩み続けていた。
シリルは駄目だ。好感度は一番高いけれど、あれは完全に研究仲間の数字だ。二人を恋人にしようとしたら、たぶん告白の代わりに共同論文が出来上がる。
レオンも難しい。からかっても聞き流されて、照れても気づかれない。紬との相性が致命的に悪い。ツンデレのツンが、紬にはまったく届かないのだ。
ユリウス先輩は理想的な人だ。でも先輩が紬に向けているのは、たぶん感謝と尊敬だと思う。妹さんの飾り紐を直してくれた恩人として。
そして、殿下。
廊下ですれ違うたびに紬を目で追っている。誰にも気づかれなかった寝不足を見抜かれて、あんな顔で笑っていた。何より、ゲームのメインヒーローだ。殿下のハッピーエンドは、全ルートの中で一番美しい結末だった。
それに。
(私の最推しだし)
ペンを持つ手が止まる。私情が入っていないと言えば嘘になる。
でも、推しと親友が結ばれるなんて最高じゃないか。特等席で見届けられるのは、同室の子である私の特権だ。
私はノートに大きく書き込んだ。
『目標:アレクシス殿下ルート』
◇ ◇ ◇
作戦その一。ハンカチ作戦。
ゲームでは、ヒロインが落としたハンカチを殿下が拾い、届けてくれるイベントがある。そこで二人は少しだけ言葉を交わし、殿下がヒロインの名前を覚える。王道中の王道だ。
紬はもう名前を覚えられているけれど、そこはいい。大事なのは二人きりで話す時間を作ることだ。
月曜の昼休み。殿下が回廊を通る時間を見計らって、私は紬のハンカチを一枚、回廊の真ん中にそっと落としておいた。紬のハンカチは、どれも角に刺繍が入っている。持ち主はすぐにわかるはずだ。
柱の陰で待つこと数分。予定どおり殿下が現れ、ハンカチに気づいて拾い上げる。角の刺繍に目を留め、しばらく眺めてから、教室のほうへ歩いていった。
完璧だ。
私は急いで教室に戻り、何食わぬ顔で席についた。ほどなくして、教室の入り口に殿下が姿を見せる。女子生徒たちのざわめき。殿下はまっすぐ紬の席へ向かった。
「これは、君のものか」
「あ、はい」
紬はハンカチを受け取り、角の刺繍をちらりと確かめる。小さな鳥が三羽、枝にとまっている図案だ。
「三羽目の尾羽、糸の色を変えたやつだ。どこに落としてたんだろう」
「回廊だ。見事な刺繍だな」
「ありがとうございます。よかったら差し上げます」
「……何?」
「それ、練習用なので。同じのがあと十二枚あります」
紬は机の中から、ハンカチの束を取り出した。全部に違う刺繍が入っている。
「刺繍は手が覚えてても、糸が違うと感覚が変わるので。こっちの糸に慣れるまで、毎日一枚ずつ作ってました」
「……そうか」
殿下はハンカチの束と紬を見比べ、それから手元の一枚に目を落とした。
「では、ありがたくもらっておく」
『アレクシス 好感度 +4』
上がりはした。でも、私の思い描いていたイベントとは何かが違う。落とし物を届けにきた王子様が、なぜかお土産をもらって帰っていった。
(作戦その一、失敗……)
私はノートの一行目に、そっと線を引いた。
◇ ◇ ◇
作戦その二。温室作戦。
ゲームの殿下は、水曜の午後になると学園の温室で過ごす。公務と勉学の合間に、ひとりで息をつける唯一の場所なのだという設定だった。
そこへヒロインが偶然訪れれば、二人きりの時間が生まれる。
「紬、温室って行ったことある?」
「ない」
「南方の植物がたくさんあるらしいよ。葉っぱから繊維が取れるのとか、実から染料が取れるのとか」
「行く」
釣れた。我ながら、紬の釣り方だけは上達している。
週中のある日の午後。温室の扉を開けると、むっとするような湿気と甘い花の香りが押し寄せてきた。ガラス張りの天井から差し込む光の中に、見たこともない植物が生い茂っている。
そして奥のベンチに、殿下がいた。
よし。
私は紬の背中をそっと押してから、さりげなく入り口の陰に引っ込んだ。
紬は殿下に気づいて会釈する。殿下も小さくうなずき返す。いい雰囲気だ。ここで紬が殿下の隣に腰かけて、他愛もない話をして——。
紬は殿下の前を素通りして、温室の一番奥の巨大な植物に突進した。
「陽菜!これ、葉っぱに繊維が通ってる!芭蕉布みたい!」
(呼ばないで!私の名前を呼ばないで!)
入り口の陰で縮こまる私。殿下がゆっくりとこちらを振り返る気配がした。
まずい。目が合った。
「……君は」
殿下が立ち上がり、まっすぐこちらへ歩いてくる。逃げ場はない。私は観念して陰から出た。
「ハ、ハンナ・ミレットと申します。エリシアの同室の……」
「知っている」
殿下の青い瞳が、じっと私を見下ろした。
「入学式の日、回廊の柱の陰にいたな。中庭の植え込みの陰にも。月曜には、回廊にハンカチを落としていった」
「…………」
「隠れるのが上手いとは言えないな」
全部、バレていた。
顔から火が出そうになる。いや、出ている。たぶん今、レオンに負けないくらい赤くなっている。
「なぜあんなことをする」
「そ、それは……」
言い訳が何も出てこない。殿下とエリシアをくっつけようとしていました、なんて言えるわけがない。
沈黙に耐えきれずうつむいた私の耳に、思いがけない音が届いた。
くつくつと、喉の奥で笑う音。
顔を上げると、殿下が口元を手で押さえていた。肩が小さく震えている。
「……すまない。あまりにも必死な顔をしていたから」
笑っている。あの完璧な王太子殿下が、声を殺して笑っている。
ゲームで何百回も見てきた殿下の、どのスチルにもない顔だった。
◇ ◇ ◇
温室の奥では、紬が葉っぱを一枚もらう許可を庭師に取りに行っていた。ベンチには、私と殿下が並んで座っている。
どうしてこうなったんだろう。
「君は、彼女と仲がいいのだな」
殿下の視線が、私の手首に向けられる。紬にもらった橙色のブレスレットだ。
「それも、彼女が?」
「……はい。幼い頃からの友人なので」
「そうか」
殿下は少しだけ目を細めて、温室の奥を見やった。葉っぱを抱えて戻ってくる紬が、植物の間に見え隠れしている。
「彼女は、俺を王太子として見ていない」
静かな声だった。
「俺の前に来る者は、たいてい俺の肩書きを見ている。家のため、立場のため。それが当然だし、俺もそのように振る舞ってきた」
「…………」
「だが彼女は、肩章の刺繍や、俺が拾った樹皮や、俺の目の下の隈を見ている。俺という人間の、手の届くところにあるものだけを」
殿下はかすかに笑った。さっきの笑い方とは違う、少しだけ寂しそうな笑みで。
「それが、ひどく楽なんだ」
何も言えなかった。
ゲームの殿下は、ヒロインと恋に落ちることで重圧から解放されていく。愛されることで、王太子ではないひとりの人間になれる。それが殿下ルートの核心だった。
でも目の前の殿下は、恋なんてしていなくても、もう少しだけ救われている。紬がただ、殿下の手の届くところを見ていたというだけで。
「……あの、殿下」
「なんだ」
「エリシアのこと、どう思ってらっしゃいますか」
思わず口をついて出た質問に、殿下は少し考えるような顔をした。
「興味深い人だと思う。それ以上は、まだわからない」
それから、私のほうを見る。
「君は、彼女に何かを望んでいるのか」
「え……」
「隠れて、ハンカチを落として、温室まで連れてきて。彼女に、何かをさせたいように見える」
図星だった。
紬に恋をさせたい。ハッピーエンドを迎えさせたい。私はずっとそう思っていた。せっかくヒロインに生まれ変わったのだから、と。
でも、それは本当に紬の望みなのだろうか。
「彼女が何を好きになるかは、彼女が決めることだ」
殿下の声は、責めるようではなかった。ただ当たり前のことを言っているだけ、という調子で。
「……そう、ですね」
私は手首のブレスレットを握りしめた。
紬は最初に言っていた。恋愛はしない、と。ずっとそう言っていたのに、私は聞こえないふりをしていたのかもしれない。
「陽菜、もらえた!」
紬が大きな葉っぱを両腕に抱えて戻ってきた。殿下と私が並んで座っているのを見て、ほんの少しだけ首をかしげる。
「二人で何話してたの?」
「……なんでもないよ」
殿下が立ち上がり、紬の抱えた葉っぱに目を落とした。
「それで、何を作るんだ?」
「わかりません。まず繊維を取ってみます」
「そうか。出来たら見せてくれ」
「はい」
殿下はうなずき、温室の扉へ向かう。それから、ふと思い出したように足を止めた。
「そうだ。まだ公にはなっていないが、来週、隣国から交換留学生が来る」
私の背筋が、ぴしりと凍りついた。
「フェルディナント王家の第三王子だ。何かと騒がしくなるだろうが、気にしなくていい」
そう言い残して、殿下は温室を出ていった。
残された私は、ベンチの上で固まったまま動けない。
隣国の王族。交換留学生。ノア・フェルディナント。
全攻略対象のハッピーエンドを見なければ出会えないはずの、隠し攻略対象。
(なんで今!?)
ノートに書いた作戦その三以降は、結局一度も使われることはなかった。




