第63話:最後の未練
もう一度だけ。
美香に会いたい。
それが、死にかけた男の最後の未練だった。
陽菜からの「するでしょ」という短い返事を見てから、太郎はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
胸の奥に、ずっと押し込めていたものがゆっくり動き出す。
美香。
もう何年も会っていない。
あの夜、公園で別れてから。
太郎は何度も連絡しようと思った。
でもそのたびにやめた。
美香には守るものがあった。
翔太の人生。
だから自分が関わるべきじゃないと、ずっと思っていた。
それなのに――
死にかけた瞬間、頭に浮かんだのは美香だった。
太郎は深く息を吐いた。
「会いたいな…」
誰もいない部屋で、小さくつぶやいた。
その時だった。
また陽菜からメッセージが届いた。
「お父さん」
太郎は画面を見た。
「その人、まだ生きてるの?」
太郎は少し笑った。
「多分な」
すぐに返信が来る。
「じゃあ会えばいいじゃん」
太郎は驚いた。
「簡単に言うな」
すると陽菜は続けて送ってきた。
「死にかけた人が遠慮してどうすんの」
太郎は思わず笑った。
「冷たい娘だな」
するとすぐ返事。
「現実的なだけ」
そして最後に一言。
「後悔するよりマシ」
その言葉を見た瞬間、太郎の胸の奥で何かが決まった。
長い間、逃げていた。
過去からも。
気持ちからも。
でももう若くない。
人生は思っているより短い。
太郎はスマホの連絡先を開いた。
そこにある名前。
美香
何年も触れていない番号。
指が少し震えた。
それでも太郎は、ゆっくりメッセージを打った。
「久しぶり」
短い一言。
それだけで、胸が強く鳴る。
太郎は数秒迷った。
そして――
送信ボタンを押した。
画面に表示された文字。
送信しました
その瞬間、太郎は天井を見上げた。
「今さらだよな…」
小さく笑った。
でも。
遅すぎてもいい。
もう一度だけ。
美香に会いたい。
それが、死にかけた男の――
最後の未練だった。




