第62話:最後に会いたい人
夜になると、どうしても考えてしまう人がいた。
美香。
太郎の未練は、歳を取っても、死にかけてもまだ終わってなかった。
退院して家に戻ってから、太郎の生活は少し変わった。
医者には「もう少しで危なかった」と言われた。
食事も気をつけるように言われ、酒もほとんどやめた。
陽菜も時々連絡をくれるようになった。
「ちゃんと薬飲んでる?」
短いメッセージ。
それだけでも、太郎には十分だった。
それなのに――
夜になると、どうしても考えてしまう人がいた。
美香だった。
倒れて床にいたあの瞬間。
人生の終わりを感じた時。
頭に浮かんだのは、美香だった。
若い頃の顔。
葬儀屋で出会った日のこと。
事務所で笑っていた姿。
そして最後に背中を向けて歩いていった夜。
太郎はソファに座りながら、ため息をついた。
「情けないな…」
もう何十年も前の恋だ。
それでも消えない。
むしろ、死にかけてから強くなってしまった。
もしあの時、美香を離さなかったら。
もし真美と結婚しなかったら。
そんな「もし」が、夜になると頭に浮かぶ。
太郎はスマホを手に取った。
連絡先の中に、まだ残っている名前。
美香
指が画面の上で止まる。
もう何年も連絡していない。
今さら何を言うんだ。
太郎は苦笑した。
それでも、消せなかった。
連絡先も。
思い出も。
その時、陽菜からメッセージが届いた。
「ちゃんと寝てる?」
太郎は少し考えて返信した。
「寝てるよ」
そして少し迷ってから、もう一行打った。
「陽菜」
すぐに返信が来た。
「なに?」
太郎はゆっくり文字を打った。
「もし人が、会いたい人に会わないまま死んだら」
少し間を置いて送信した。
「後悔すると思うか?」
既読がついた。
しばらく返信は来なかった。
数分後、陽菜から短いメッセージが届いた。
「するでしょ」
その一言だった。
太郎はスマホを見つめた。
窓の外は静かな夜だった。
胸の奥で、ずっと消えなかった感情がまた動き出す。
美香。
もしもう一度だけ会えるなら。
太郎の未練は、歳を取っても、死にかけても――
まだ終わっていなかった。




