第60話:異変
呼吸が少しずつ小さくなっていく太郎。
最後に思ったのは、ただ一つ。
「みんな幸せになれよ」
それだけだった。
陽菜が社会人になった頃、太郎との距離は少しずつ広がっていった。
就職して都会に出ていった陽菜は忙しくなり、家に帰る回数も減った。
最初のうちは月に一度は帰ってきていた。
「お父さん、元気?」
そう言って笑っていた。
でも一年、二年と過ぎるうちに、連絡は少なくなった。
電話も、短いメッセージだけになる。
太郎はそれを責めなかった。
むしろ少し安心していた。
陽菜はやっと普通の人生を歩き始めたのだと思ったから。
壊れた家庭の記憶から離れて。
それでいい。
太郎はそう思っていた。
葬儀屋の仕事は続けていた。
人の最後を見送る仕事。
若い頃は重い仕事だと思っていた。
でも年を取るにつれて、少しずつ感じ方が変わっていった。
人生は終わる。
それが当たり前なのだと。
ある冬の日だった。
仕事を終えて家に帰り、いつものように一人で夕飯を食べた。
静かな家だった。
テレビの音だけが流れている。
ふと胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「……あれ」
立ち上がろうとしたが、体が動かない。
息が苦しくなる。
床に倒れた。
そのまま、天井を見つめる。
救急車を呼ぼうと思った。
でもスマホはテーブルの上。
手が届かない。
冷たい床の上で、太郎はゆっくり呼吸をした。
不思議と、怖くはなかった。
ただ、いろんな顔が浮かんできた。
美香。
翔太。
真美。
そして――
陽菜。
小さかった頃の陽菜。
手を握って歩いた夜の道。
「お父さんと二人なら大丈夫かも」
あの言葉を思い出した。
太郎は小さく笑った。
「大丈夫だったか…?」
声はほとんど出なかった。
窓の外は静かな夜だった。
太郎の呼吸は、少しずつ弱くなっていく。
最後に思ったのは、後悔ではなかった。
ただ一つ。
「みんな、幸せになれよ」
それだけだった。




