第48話:美香への思い
「あなたの心、ずっと美香」
その言葉は、事実だった。
美香の人生までも巻き込んで取り返しのつかない地獄が静かに動き始める。
美香とキスをしてしまった夜から、太郎の心は激しく揺れていた。
あれは衝動だった。
陽菜のこと、家庭のこと、すべてが限界だった。
そのとき、唯一心を受け止めてくれたのが美香だった。
だが同時に、強い罪悪感もあった。
美香は既婚者だ。
そして自分も、まだ真美と結婚している。
帰り道、太郎は何度も美香に謝った。
「本当にごめん」
美香はしばらく黙っていた。
そして小さく言った。
「太郎…」
「うん」
「もう会わない方がいいかもしれない」
その言葉は、太郎の胸を刺した。
「どうして」
「だって…」
美香は目を伏せた。
「また同じことになる」
太郎は何も言えなかった。
あの昔と同じ過ち。
美香は続けた。
「太郎のこと嫌いじゃない」
その言葉に、太郎の心が揺れる。
「でも、今は違う」
「…」
「陽菜ちゃんが一番大事な時でしょ」
太郎はうなずくしかなかった。
二人はその夜、そこで別れた。
太郎は重い足取りで家に帰った。
玄関のドアを開けた瞬間、違和感を感じた。
リビングの電気がついている。
そして——
真美がソファに座っていた。
暗い部屋で、スマホを握っている。
その顔を見た瞬間、太郎の背筋が凍った。
目が、完全に据わっていた。
「…遅かったね」
低い声だった。
「仕事だ」
太郎はそう答えた。
真美は笑った。
乾いた笑い。
「嘘」
太郎の胸がざわつく。
「何言ってる」
真美はスマホをテーブルに置いた。
画面が太郎の方を向いている。
そこには——
太郎と美香のメッセージ画面が映っていた。
太郎の顔から血の気が引く。
「……」
真美は静かに言った。
「スマホ、置きっぱなしだったよ」
太郎のスマホだった。
家を出るとき、充電したままだったのを忘れていた。
「全部見た」
その一言で、すべて終わったと太郎は思った。
真美は立ち上がった。
ゆっくり近づいてくる。
「へぇ」
笑っている。
でも目は笑っていない。
「やっぱり美香なんだ」
太郎は何も言えなかった。
真美は続けた。
「まだ好きなんだ」
沈黙。
それが答えだった。
真美の表情がゆっくり歪んだ。
「キスまでしてるし」
太郎の心臓が跳ねた。
「…ごめん」
思わずそう言った。
その瞬間、真美の顔が変わった。
「ごめん?」
声が震えている。
「ごめんで済むの?」
太郎は言葉が出ない。
真美は笑い始めた。
最初は小さく。
そしてだんだん大きく。
狂ったような笑いだった。
「ははは…!」
太郎は背筋が寒くなった。
真美は笑いながら言った。
「やっぱりそうなんだ」
「…」
「最初から、美香だったんだね」
その言葉は静かだった。
だが、深い怨念がこもっていた。
真美は急に真顔になった。
「知ってる?」
太郎は黙ったまま。
「私ね」
ゆっくり言う。
「高校の時から太郎好きだった」
太郎は驚いた。
「美香と付き合ってるの知ってた」
「…」
「でも絶対奪えると思ってた」
真美の目は狂っていた。
「だって男って浮気するじゃん」
太郎は何も言えない。
真美は続けた。
「だから近づいた」
「同じ美容院に来たとき、運命だと思った」
太郎の胸がざわつく。
「でも違った」
真美は笑った。
「あなたの心、ずっと美香」
その言葉は事実だった。
真美の目から涙が流れた。
でも止まらない笑いも混じっている。
「私バカみたい」
「…」
「全部壊してまで結婚したのに」
太郎は息が詰まりそうだった。
真美は急に近づいた。
そして耳元で囁いた。
「でもね」
太郎は固まる。
「あなた、美香とは絶対幸せになれない」
真美の声は冷たかった。
「なんで…」
真美は微笑んだ。
「壊してやるから」
その言葉に、太郎の背筋が凍った。
真美はスマホを取り上げた。
「これ」
画面には、美香の連絡先。
真美はゆっくり言った。
「この女の人生も」
「全部壊してやる」
太郎は叫んだ。
「やめろ!」
だが真美は止まらない。
狂ったように笑いながら言った。
「楽しみだね」
「太郎」
その目は完全に壊れていた。
そしてその夜から——
真美の狂気は、本当に始まった。
太郎の家庭だけではない。
美香の人生までも巻き込んで。
取り返しのつかない地獄が、静かに動き始めていた。




