第44話:真美の本心
「あなたは、一生わたしといるの」
この結婚はもう壊れている。
愛ではなく執着だった。
美香と再会してからというもの、太郎の心は落ち着かなかった。
家に帰っても、頭の中には美香の顔が浮かぶ。
葬儀場の前で見たあの落ち着いた笑顔。
少しだけ寂しそうだった目。
(縁があればね)
その言葉が何度も頭の中で繰り返された。
もし本当に縁があるなら。
もう一度、話せるだろうか。
そんなことばかり考えていた。
その日も、太郎は仕事を終えて遅く帰宅した。
玄関を開けると、家の中は静まり返っている。
リビングの明かりだけがついていた。
真美がソファに座ってスマホを見ていた。
「遅かったね」
視線も上げずに言う。
「ああ…仕事が長引いた」
太郎はネクタイを緩めながら答えた。
会話はそれだけだった。
結婚してから何年も経つが、最近の二人の会話はほとんどこんなものだった。
必要最低限。
それ以上はない。
昔は違った。
結婚したばかりの頃は、真美もよく笑っていた。
太郎も、家に帰るのが嫌ではなかった。
けれど、いつからだろう。
会話が減り、
触れ合うこともなくなり、
同じ家に住む他人のようになっていった。
太郎はキッチンで水を飲んだ。
真美がぽつりと言った。
「最近、帰り遅いね」
「仕事だよ」
「ふーん」
それ以上は聞いてこない。
太郎は少しイラついた。
「何だよ」
「別に」
真美はスマホから目を離さない。
その態度が、太郎の神経を逆なでした。
「言いたいことあるなら言えよ」
真美はゆっくり顔を上げた。
「……浮気してるの?」
太郎の心臓が一瞬止まった。
「は?」
「してるの?」
真美の目は冷たかった。
太郎は舌打ちした。
「してねえよ」
本当は、沙織との関係があった。
そして、心の中には美香がいる。
だが、それを言うわけにはいかなかった。
真美は小さく笑った。
「そう」
その笑い方が、どこか馬鹿にしているように見えた。
「何だよその態度」
「別に」
「疑ってんのか」
真美は肩をすくめた。
「今さら、別にどうでもいいし」
その一言が、太郎の胸に突き刺さった。
どうでもいい。
妻にそう言われる結婚生活。
太郎は思わず言った。
「お前だって俺のこと好きで結婚したわけじゃないだろ」
その言葉に、真美の目がわずかに揺れた。
「……何それ」
「違うのかよ」
太郎は吐き出すように言った。
「最初から、俺のこと狙ってただけだろ」
真美の顔色が変わった。
「それ、美香のこと?」
太郎は黙った。
その沈黙が答えだった。
真美はゆっくり立ち上がった。
「まだ忘れてないんだ」
太郎は何も言えなかった。
真美は笑った。
でも、その笑いは完全に壊れていた。
「やっぱりね」
「……」
「ずっと思ってた」
真美は太郎の前に立った。
「あなたの目、私を見てない」
太郎は視線をそらした。
図星だった。
真美は続けた。
「ずっと美香を見てる」
その名前を聞くだけで、太郎の胸が痛くなる。
「違う」
とっさに否定した。
真美は首を横に振った。
「嘘」
静かな声だった。
でも、狂気が混じっていた。
「ねえ太郎」
真美はゆっくり言った。
「もし今、美香が戻ってきたら」
太郎の心臓が強く跳ねた。
「私、捨てる?」
太郎は答えられなかった。
沈黙。
それが、すべての答えだった。
真美の顔が歪んだ。
「……最低」
涙がにじんでいた。
でも、怒りの方が強かった。
「じゃあ何で結婚したのよ」
太郎は思わず叫んだ。
「お前が妊娠したからだろ!」
真美の表情が固まった。
家の中に重い沈黙が落ちた。
それは、二人がずっと触れないようにしてきた真実だった。
真美は震える声で言った。
「……やっぱりそうなんだ」
太郎は言い過ぎたことに気づいた。
だが、もう遅かった。
真美はゆっくり笑った。
「そっか」
「真美…」
「でもね」
真美の目が狂気を帯びていた。
「あなた、美香には戻れないよ」
太郎は眉をひそめた。
「何言って…」
真美は近づいた。
そして小さく囁いた。
「だってあなた、浮気男だもん」
その言葉は刃のようだった。
「美香、絶対あなた選ばない」
太郎の胸が強く締め付けられた。
それは、太郎自身が一番わかっていることだった。
真美は続けた。
「だから安心して」
「……」
「あなたは一生、私といるの」
その目は狂っていた。
愛ではない。
執着。
太郎は急に息苦しくなった。
この結婚は、もう壊れている。
いや。
最初から壊れていたのかもしれない。
太郎はその夜、ほとんど眠れなかった。
暗い天井を見ながら、ずっと考えていた。
美香のこと。
もしあの時、浮気なんてしなければ。
もし真美と関わらなければ。
人生は全然違っていたはずだ。
隣の部屋から、真美の物音が聞こえた。
太郎は目を閉じた。
胸の奥で、どうしようもない思いが膨らんでいく。
(美香…)
もう戻れない。
それでも。
消えない。
その思いが、太郎の人生をさらに壊していくことになる。
そして真美の狂気も、
まだ始まったばかりだった。




