第42話:色を失う
沙織と離れて家族を守った太郎。
だが、この家族はとっくに壊れている。
真美の狂気は続く。
沙織と別れてから、太郎の毎日は急に色を失った。
仕事は相変わらず忙しい。
葬儀の打ち合わせ、通夜、告別式。
人の死に向き合う仕事は、容赦なく続いていく。
だがその中で、太郎の心はどこか空っぽだった。
事務所の机に座ると、どうしても思い出してしまう。
「支店長、コーヒー淹れました」
沙織の声。
ふと顔を上げる。
だがそこにはもう、沙織はいない。
数日前、沙織は辞めていた。
理由は「家庭の事情」。
表向きはそうなっている。
だが太郎には分かっていた。
自分のせいだ。
太郎は引き出しを開けた。
そこには一本のボールペンが入っている。
沙織が以前、何気なく渡してくれたものだった。
「支店長、これ書きやすいですよ」
その声が頭の中で蘇る。
太郎はゆっくり目を閉じた。
胸が痛い。
どうしてあの時、止めなかったのか。
どうして追いかけなかったのか。
理由は分かっている。
怖かったからだ。
家庭を壊すことが。
世間を敵に回すことが。
だから太郎は選んだ。
家庭を。
だがその結果、何が残ったのか。
家に帰る。
ドアを開ける。
「……」
真美がソファに座っている。
テレビの光だけが部屋を照らしている。
「おかえり」
冷たい声。
太郎は小さく答える。
「ただいま」
会話はそれで終わり。
食事はすでにテーブルに置かれている。
温め直された料理。
娘は自分の部屋から出てこない。
三人で暮らしているのに、家の中は静まり返っていた。
箸を動かす音だけが響く。
太郎は思った。
(何のために…)
家庭を守ったはずだった。
それなのに、この空気。
沙織といた時間の方が、よほど温かかった。
ふと視線を上げると、真美が太郎を見ていた。
その目は冷たい。
そしてどこか勝ち誇っているようにも見える。
「なに」
太郎が言う。
真美は笑った。
「別れたんでしょ」
太郎は答えない。
真美は続ける。
「よかったじゃん」
その声は軽かった。
だが太郎の胸には重く落ちた。
「家族守れたね」
その言葉を聞いた瞬間、太郎の中で何かが揺れた。
守れた?
本当に?
太郎は静かに言った。
「守れてないだろ」
真美の眉が少し動く。
「何それ」
太郎は続けた。
「この家、もう家族じゃない」
空気が凍った。
真美の表情が変わる。
「……は?」
太郎はテーブルに箸を置いた。
「会話もない」
「笑いもない」
「触れもしない」
一つ一つ言葉を置く。
「これ、家族か?」
真美の顔が赤くなった。
「誰のせいだと思ってんの!?」
怒鳴った。
「浮気したのはあんたでしょ!!」
太郎は黙った。
その通りだった。
だがそれでも、心の奥の空洞は消えない。
真美は続ける。
「その女のこと、まだ好きなの?」
太郎は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
真美の手が震える。
「……最低」
その言葉を吐き捨て、真美は部屋を出ていった。
ドアが強く閉まる音。
太郎は動かなかった。
ただ天井を見上げた。
胸の奥に浮かぶのは、沙織の笑顔だった。
公園のベンチ。
優しい声。
「太郎さん」
その呼び方。
太郎は顔を手で覆った。
もう戻れない。
自分で選んだ道だ。
だがその夜、太郎は初めて本気で思った。
あの時、沙織を選べばよかった。
だが人生はやり直せない。
失ったものは戻らない。
そしてこの後、太郎はまだ知らなかった。
真美の狂気は——
まだ終わっていないことを。




