第41話:執着
「もう二度と私の夫に近づくな」
真美は沙織に釘を刺す。
太郎にとって沙織のいない世界は、あまりにも静かだった。
真美の中で何かが壊れたのは、その夜だった。
太郎の口から出た言葉。
「沙織をやめるつもりはない」
その一言は、長年積み上げてきたものを一瞬で崩した。
真美はしばらく何も言えなかった。
ただ太郎を見つめていた。
その目は怒りというより、どこか冷たく、深い場所を覗き込んでいるようだった。
「……そう」
やがて真美は小さく言った。
声は静かだった。
さっきまで怒鳴っていたのが嘘のように、落ち着いている。
だがその静けさの方が、太郎には怖かった。
「じゃあ、その女と一緒にいればいいじゃん」
真美はソファに座り直した。
足を組み、腕を組む。
「家出ていけば?」
太郎は黙っていた。
簡単なことではない。
娘もいる。
家もある。
世間体もある。
「……それはできない」
その言葉を聞いた瞬間、真美の口元が歪んだ。
「は?」
「何それ」
笑いながら言った。
「浮気はやめない。でも家は出ない?」
その声には、明らかな嘲笑が混じっていた。
「太郎、ほんと最低だね」
太郎は何も言えなかった。
その通りだったからだ。
真美は立ち上がり、太郎の前まで歩いてきた。
そして低い声で言った。
「その女、どこに住んでるの?」
太郎の胸が一瞬強く跳ねた。
「関係ないだろ」
「あるよ」
真美は笑った。
その笑顔は、太郎が今まで見たことのないものだった。
冷たい。
そしてどこか、狂っている。
「会ってみたいな」
「やめろ」
太郎が強く言った。
「なんで?」
「関係ない」
「関係あるでしょ」
真美の目が鋭くなる。
「私の旦那に手出してる女なんだから」
その言葉には強い執着があった。
愛情なのか、所有欲なのか、それはもう分からない。
だが一つだけ確かなのは——
真美は太郎を絶対に手放さない。
その夜はそれ以上会話はなかった。
だが真美の中では、すでに次の行動が決まっていた。
数日後。
葬儀社の支店に一本の電話がかかってきた。
「はい、○○葬儀社です」
電話を取ったのは沙織だった。
「太郎います?」
女性の声。
沙織は少し不思議に思った。
「支店長ですか?」
「そう」
「どちら様でしょうか」
一瞬の沈黙。
そしてその女性は言った。
「奥さん」
沙織の心臓が止まりそうになった。
「……え?」
「太郎の妻」
その声は、驚くほど冷静だった。
沙織は何も言えなくなった。
その沈黙で、真美は確信した。
「あなたが沙織?」
沙織の喉が詰まる。
「……はい」
その瞬間、真美は小さく笑った。
電話越しでも分かる冷たい笑いだった。
「やっぱりね」
沙織の手が震える。
「太郎、いる?」
「今、席を外してます」
「そう」
真美は言った。
「じゃあ伝えて」
少し間を置いて、はっきり言った。
「もう二度と私の夫に近づくなって。」
そして電話は切れた。
受話器を持ったまま、沙織は動けなかった。
手が震えている。
胸が苦しい。
その時、事務所のドアが開いた。
「ただいま」
太郎だった。
沙織の顔を見て、すぐに異変に気づいた。
「どうした?」
沙織はゆっくり顔を上げた。
「奥さんから電話がありました」
太郎の顔色が変わる。
「……なんて?」
沙織は少し笑った。
悲しい笑顔だった。
「もう近づくなって」
太郎は何も言えなかった。
沈黙が落ちる。
沙織は続けた。
「奥さん、すごく怒ってました」
当然だ。
当たり前のことだ。
沙織は分かっていた。
最初から。
この恋が普通じゃないことを。
「沙織」
太郎が言う。
「気にするな」
その言葉を聞いて、沙織は首を振った。
「太郎さん」
初めて名前で呼んだ時と同じ声だった。
だが今は、どこか遠い。
「終わりにしましょう」
太郎の胸が締めつけられた。
「何言ってるんだ」
「これ以上は無理です」
「沙織」
「奥さんいるんです」
沙織の目には涙が浮かんでいた。
「家族壊すのは…嫌です」
太郎は何も言えなかった。
自分がどれだけ身勝手なことをしているのか、今さらながら突きつけられた気がした。
沙織は続けた。
「太郎さんといる時間、幸せでした」
その言葉が、胸に深く刺さる。
「でも」
沙織は涙を拭いた。
「これ以上続けたら、きっと後悔します」
太郎は手を伸ばした。
「待て」
だが沙織は一歩下がった。
「ごめんなさい」
その一言で、すべてが終わった。
その日の夜。
太郎は一人で帰宅した。
家のドアを開けると、真美がリビングに座っていた。
「おかえり」
太郎は何も言わない。
真美はゆっくり立ち上がった。
「その女」
太郎の胸が痛む。
「別れた?」
太郎はしばらく黙っていた。
そして小さく言った。
「……ああ」
真美はそれを聞いて、満足そうに笑った。
「よかった」
だがその笑顔を見た瞬間、太郎の胸の奥に強い虚しさが広がった。
守ったはずの家庭。
取り戻したはずの日常。
それなのに——
心は空っぽだった。
沙織のいない世界は、あまりにも静かだった。
そして太郎は気づく。
自分が失ったものの大きさに。
だがもう遅かった。
沙織は、もう戻らない。




