表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

41/47

第41話:執着

「もう二度と私の夫に近づくな」

真美は沙織に釘を刺す。

太郎にとって沙織のいない世界は、あまりにも静かだった。

真美の中で何かが壊れたのは、その夜だった。


太郎の口から出た言葉。


「沙織をやめるつもりはない」


その一言は、長年積み上げてきたものを一瞬で崩した。


真美はしばらく何も言えなかった。


ただ太郎を見つめていた。


その目は怒りというより、どこか冷たく、深い場所を覗き込んでいるようだった。


「……そう」


やがて真美は小さく言った。


声は静かだった。

さっきまで怒鳴っていたのが嘘のように、落ち着いている。

だがその静けさの方が、太郎には怖かった。


「じゃあ、その女と一緒にいればいいじゃん」


真美はソファに座り直した。

足を組み、腕を組む。


「家出ていけば?」


太郎は黙っていた。


簡単なことではない。


娘もいる。

家もある。

世間体もある。


「……それはできない」


その言葉を聞いた瞬間、真美の口元が歪んだ。


「は?」

「何それ」


笑いながら言った。


「浮気はやめない。でも家は出ない?」


その声には、明らかな嘲笑が混じっていた。


「太郎、ほんと最低だね」


太郎は何も言えなかった。


その通りだったからだ。


真美は立ち上がり、太郎の前まで歩いてきた。

そして低い声で言った。


「その女、どこに住んでるの?」


太郎の胸が一瞬強く跳ねた。


「関係ないだろ」


「あるよ」


真美は笑った。


その笑顔は、太郎が今まで見たことのないものだった。


冷たい。

そしてどこか、狂っている。


「会ってみたいな」


「やめろ」


太郎が強く言った。


「なんで?」


「関係ない」


「関係あるでしょ」


真美の目が鋭くなる。


「私の旦那に手出してる女なんだから」


その言葉には強い執着があった。


愛情なのか、所有欲なのか、それはもう分からない。


だが一つだけ確かなのは——

真美は太郎を絶対に手放さない。


その夜はそれ以上会話はなかった。


だが真美の中では、すでに次の行動が決まっていた。


数日後。


葬儀社の支店に一本の電話がかかってきた。


「はい、○○葬儀社です」


電話を取ったのは沙織だった。


「太郎います?」


女性の声。


沙織は少し不思議に思った。


「支店長ですか?」


「そう」


「どちら様でしょうか」


一瞬の沈黙。


そしてその女性は言った。


「奥さん」


沙織の心臓が止まりそうになった。


「……え?」


「太郎の妻」


その声は、驚くほど冷静だった。


沙織は何も言えなくなった。


その沈黙で、真美は確信した。


「あなたが沙織?」


沙織の喉が詰まる。


「……はい」


その瞬間、真美は小さく笑った。


電話越しでも分かる冷たい笑いだった。


「やっぱりね」


沙織の手が震える。


「太郎、いる?」


「今、席を外してます」


「そう」


真美は言った。


「じゃあ伝えて」


少し間を置いて、はっきり言った。


「もう二度と私の夫に近づくなって。」


そして電話は切れた。


受話器を持ったまま、沙織は動けなかった。


手が震えている。

胸が苦しい。


その時、事務所のドアが開いた。


「ただいま」


太郎だった。


沙織の顔を見て、すぐに異変に気づいた。


「どうした?」


沙織はゆっくり顔を上げた。


「奥さんから電話がありました」


太郎の顔色が変わる。


「……なんて?」


沙織は少し笑った。

悲しい笑顔だった。


「もう近づくなって」


太郎は何も言えなかった。


沈黙が落ちる。


沙織は続けた。


「奥さん、すごく怒ってました」


当然だ。


当たり前のことだ。


沙織は分かっていた。


最初から。

この恋が普通じゃないことを。


「沙織」


太郎が言う。


「気にするな」


その言葉を聞いて、沙織は首を振った。


「太郎さん」


初めて名前で呼んだ時と同じ声だった。


だが今は、どこか遠い。


「終わりにしましょう」


太郎の胸が締めつけられた。


「何言ってるんだ」


「これ以上は無理です」


「沙織」


「奥さんいるんです」


沙織の目には涙が浮かんでいた。


「家族壊すのは…嫌です」


太郎は何も言えなかった。


自分がどれだけ身勝手なことをしているのか、今さらながら突きつけられた気がした。


沙織は続けた。


「太郎さんといる時間、幸せでした」


その言葉が、胸に深く刺さる。


「でも」


沙織は涙を拭いた。


「これ以上続けたら、きっと後悔します」


太郎は手を伸ばした。


「待て」


だが沙織は一歩下がった。


「ごめんなさい」


その一言で、すべてが終わった。



その日の夜。


太郎は一人で帰宅した。


家のドアを開けると、真美がリビングに座っていた。


「おかえり」


太郎は何も言わない。


真美はゆっくり立ち上がった。


「その女」


太郎の胸が痛む。


「別れた?」


太郎はしばらく黙っていた。


そして小さく言った。


「……ああ」


真美はそれを聞いて、満足そうに笑った。


「よかった」


だがその笑顔を見た瞬間、太郎の胸の奥に強い虚しさが広がった。


守ったはずの家庭。

取り戻したはずの日常。


それなのに——

心は空っぽだった。


沙織のいない世界は、あまりにも静かだった。


そして太郎は気づく。


自分が失ったものの大きさに。


だがもう遅かった。


沙織は、もう戻らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ