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第39話:楽しみな時間

太郎は沙織への愛を確信する。

だがその愛は太郎の家庭を決定的に壊していくことになる。

沙織との関係は、気づけば太郎の生活の中で当たり前のものになっていた。


最初はただ、仕事終わりに少し話すだけだった。


それが、いつの間にか太郎の一日の中で一番楽しみな時間になっていた。


葬儀社の仕事は重い。


人の死に向き合い、悲しむ家族の前で冷静に動かなければならない。


太郎は支店長として、常に気を張っていた。


だが事務所の奥で、沙織と二人きりになると、その緊張が少しだけ解けた。


「支店長、またコーヒーですか」


ある夜、沙織が笑った。


太郎の机の上には缶コーヒーが三本並んでいた。


「眠くてさ」


「飲みすぎですよ」


「じゃあ沙織さんが起こしてよ」


冗談で言うと、沙織は小さく笑った。


その笑顔を見ると、胸が少し温かくなる。


それは、家では感じることのない感覚だった。


家に帰ると、いつも静まり返っている。


「ただいま」


そう言っても返事はない。


真美はスマホを見ているか、娘とだけ話している。


食卓に座っても、会話はない。


「……」


箸の音だけが響く。


そんな時間が、何年も続いていた。


太郎はもう慣れていた。


だが慣れていることと平気であることは違う。


心のどこかに、ぽっかり穴が空いていた。


そしてその穴を埋めていったのが、沙織だった。


ある日の帰り道だった。


「支店長」


「ん?」


「今日は早く終わりましたね」


時計を見ると、まだ夜の九時だった。

葬儀社としては珍しく早い時間だ。


「たまにはいいだろ」


「じゃあご飯行きません?」


沙織が言った。


太郎は少し驚いた。


だがすぐにうなずいた。


「いいね」


二人は駅前の小さな定食屋に入った。

派手な店ではない。

だが静かで落ち着く場所だった。


「こういう店、落ち着きますね」


沙織が味噌汁を飲みながら言った。


「うん」


太郎も頷いた。


「家だとこんな風にゆっくりご飯食べないから」


その言葉が自然に出ていた。


沙織は少しだけ太郎を見た。


「やっぱり」


「え?」


「家、居心地よくないんですね」


太郎は苦笑した。


「顔に出てる?」


「ちょっとだけ」


沙織は優しく笑った。


その笑顔を見た瞬間、太郎の胸の奥が締めつけられた。


どうしてこの人といると、こんなに落ち着くのだろう。


店を出ると、夜風が心地よかった。

駅に向かって歩く。

その途中、沙織がふと言った。


「支店長」


「ん?」


「無理して笑わなくていいですよ」


太郎は足を止めた。


「え?」


「支店長、いつも人の前では平気な顔してますけど」


沙織は続けた。


「本当は、すごく疲れてると思います」


その言葉に、胸が大きく揺れた。


誰にも言われたことがない言葉だった。


太郎はずっと、強く振る舞ってきた。


支店長として。

父親として。

夫として。


弱さを見せる場所なんて、どこにもなかった。


だが今、目の前の女性は、それを見抜いている。


「……そうかもな」


太郎は小さく言った。


その瞬間、沙織がそっと太郎の腕に触れた。


ほんの一瞬だった。


だが太郎の心臓は強く跳ねた。


触れられたのは、いつぶりだろう。


優しく触れられたのは——

いつだっただろう。


電車の時間が近づき、二人は改札前で立ち止まった。


「今日はありがとうございました」


沙織が言う。


「こっちこそ」


そのまま別れるはずだった。


だが太郎は思わず言った。


「沙織さん」


「はい?」


「また会える?」


沙織は少し驚いた顔をした。


そしてゆっくり微笑んだ。


「職場で毎日会ってますよ」


「そうじゃなくて」


太郎は続けた。


「こういう時間」


しばらく沈黙が流れた。


そして沙織が言った。


「……いいですよ」


その一言で、太郎の世界は少し変わった。


それから二人は、仕事以外でも会うようになった。


食事。

散歩。

映画。


派手なことは何もない。

ただ隣にいて、話すだけ。


それだけで太郎は満たされていた。


ある夜、二人は公園のベンチに座っていた。


静かな住宅街の小さな公園。

街灯の光がやわらかく照らしている。


「支店長」


沙織が言った。


「太郎でいいよ」


「え?」


「もう支店長じゃなくていい」


沙織は少し笑った。


「じゃあ…太郎さん」


その呼び方を聞いた瞬間、太郎の胸が熱くなった。


「沙織」


自然に名前を呼んでいた。


その時、太郎は気づいた。

自分の気持ちに。


これはもう、ただの癒しではない。

ただの浮気でもない。


太郎は——

沙織を愛してしまっていた。


その気持ちを自覚した瞬間、怖さも生まれた。


家庭がある。

娘もいる。

壊してはいけないものがある。


それでも心は止まらない。


太郎は静かに言った。


「沙織」


「はい」


「俺……」


言葉が止まる。


だが沙織は、静かに待っていた。


太郎は深く息を吸った。


「好きだ」


その言葉は、夜の公園に小さく落ちた。


沙織は驚いた顔をした。


だが逃げなかった。


「……太郎さん」


「わかってる」


太郎は続けた。


「俺、結婚してる」


「知ってます」


「最低だと思う」


「それも知ってます」


それでも沙織は帰らなかった。


しばらく沈黙が続いた。


やがて沙織が言った。


「それでもいいんですか?」


太郎は聞き返した。


「何が?」


「私を好きになって」


太郎は迷わなかった。


「もう止められない」


その言葉を聞いて、沙織はゆっくり目を閉じた。


そして——


太郎の肩にそっと寄り添った。


その瞬間。


太郎は初めて感じた。


自分が求めていたものを。


それは派手な恋ではない。

刺激でもない。

ただ誰かに必要とされること。

そして誰かを大切に思うこと。


太郎はその夜、強く思った。


もうこの人を手放したくない。


だがその愛は、同時に——


太郎の家庭を決定的に壊していくことになる。

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