第38話:落ち着く場所
どんどん距離が近くなる太郎と沙織。
この関係がさらに家庭を壊していく。
沙織と太郎の関係は、最初から特別だったわけではない。
それはとても静かに、そして自然に始まった。
葬儀社の支店にパートとして入ってきた沙織は、控えめで落ち着いた女性だった。
大きな声を出すこともなく、いつも周りに気を配っている。
最初はただの同僚だった。
「支店長、この書類ここで大丈夫ですか?」
「うん、それでいいよ。ありがとう」
そんなやり取りが毎日続くだけだった。
だが太郎にとって、沙織と話す時間は少しずつ特別なものになっていった。
家に帰っても会話はない。
真美とはほとんど言葉を交わさない日もある。
「おかえり」
その一言さえない日もあった。
娘は成長し、父親とは距離を置く年頃になっていた。
家の中にいても、太郎はどこかよそ者のようだった。
だが職場では違った。
「支店長、コーヒー淹れました」
夜遅くまで残業していると、沙織が紙コップを差し出す。
「ありがとう」
「今日も忙しかったですね」
「まあね」
それだけの会話なのに、不思議と気持ちが軽くなる。
沙織は多くを聞かない。
家庭のことも、プライベートも。
ただ、そっと気遣うだけだった。
それが太郎には心地よかった。
ある雨の日の夜だった。
通夜の準備が終わり、事務所には二人だけが残っていた。
外では雨が静かに降っている。
「支店長」
沙織が書類を片付けながら言った。
「はい?」
「いつも遅くまで大変ですね」
太郎は少し笑った。
「この仕事、慣れちゃうんだよ」
「でも体壊しますよ」
「平気平気」
沙織は少しだけ太郎を見てから言った。
「家の人、心配しません?」
その質問に、太郎は一瞬だけ黙った。
「……もう慣れてるよ」
それだけ答えた。
沙織はそれ以上聞かなかった。
だがその沈黙で、何かを感じ取ったのかもしれない。
それから数日後。
仕事が終わった帰り道だった。
二人はたまたま同じ駅に向かって歩いていた。
「支店長」
「ん?」
「ちょっとだけ飲みません?」
意外な言葉だった。
「え?」
「今日疲れましたし」
そう言って沙織は小さく笑った。
二人は駅前の小さな居酒屋に入った。
仕事の話をした。
葬儀の裏話。
遺族との出来事。
やがて話は少しずつ変わっていった。
「沙織さんは結婚してるの?」
太郎が聞いた。
「してました」
「してた?」
「離婚しました」
さらっと言った。
太郎は少し驚いた。
「そうなんだ」
「もう何年も前です」
沙織はグラスを見つめながら続けた。
「結婚って難しいですよね」
その言葉に、太郎の胸が少しだけ重くなった。
「そうだね」
「支店長は仲いいんですか?」
太郎は少し笑った。
「普通かな」
嘘だった。
だが本当のことを言う勇気もなかった。
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
「今日はありがとうございました」
沙織が言う。
「こっちこそ」
その時だった。
沙織がふと太郎を見て言った。
「支店長って…」
「ん?」
「寂しそうですよね」
太郎は驚いた。
「そんなことないよ」
「嘘です」
沙織は優しく笑った。
「なんとなく分かります」
その言葉は、太郎の心の奥に刺さった。
誰にも見せていない部分を、見抜かれた気がした。
「……まあ、少しはな」
太郎は小さく認めた。
それが境界線だったのかもしれない。
それから二人は、たまに飲みに行くようになった。
最初は月に一度。
それが二週間に一度。
やがて週に一度になった。
仕事のあと、少しだけ話す時間。
それが太郎にとって、唯一心が落ち着く時間になっていった。
家に帰るより沙織と話している方が楽だった。
ある夜。
二人は駅のホームで電車を待っていた。
「支店長」
「ん?」
「無理して家に帰らなくてもいいんじゃないですか?」
突然の言葉だった。
「え?」
「支店長、家に帰るの嫌そうだから」
太郎は苦笑した。
「そんな顔してる?」
「してます」
沙織は真っ直ぐ言った。
「もっと自分のこと大事にしてください」
その言葉に、太郎の胸が揺れた。
誰かにそんなことを言われたのは、いつぶりだろう。
家庭ではもう、そんな言葉はない。
真美とは会話もない。
夫婦として触れ合うこともない。
十年以上続くセックスレス。
冷たい空気。
家にいても孤独だった。
電車がホームに入ってくる。
「じゃあ、お疲れ様です」
沙織が乗ろうとした時、太郎は思わず言った。
「沙織さん」
「はい?」
「また飲もう」
沙織は少し驚いて、それから笑った。
「いいですよ」
その笑顔を見た瞬間。
太郎の中で何かが変わった。
それはまだ恋ではない。
だが確実に、ただの同僚ではなくなっていた。
そしてその関係は、ゆっくりと、しかし確実に深くなっていく。
太郎はまだ気づいていなかった。
この関係が——
自分の家庭をさらに壊していくことになるとは。




