第37話:夫婦の距離
広がる夫婦の距離。
その隙間に静かに入り込んだ感情。
太郎は沙織に依存していく。
それからさらに年月が流れた。
娘も生まれ、家庭は形だけ見れば普通だった。
だが夫婦の距離は、もう取り戻せないほど広がっていた。
太郎がリビングに入ると、真美は自然と席を立つ。
会話はほとんど娘のことだけ。
「学校どうだった?」
「塾の迎えお願い」
そんな事務的な言葉だけが家の中に残った。
ある夜、太郎はふと気づいた。
この家には、自分の居場所がない。
食卓でも、ソファでも、寝室でも。
どこにいても、客のような感覚だった。
娘が中学生になる頃には、真美との会話は一日数分あるかないかになっていた。
そして太郎は、仕事に逃げるようになった。
葬儀社の仕事は、人の最期に寄り添う仕事だ。
悲しむ家族の言葉を聞き、静かに段取りを整える。
不思議なことに、太郎はその時間だけは落ち着いていられた。
誰かの役に立っている。
そう感じられるからだ。
そんなある日だった。
支店の事務所に、新しいパートが入った。
名前は 沙織。
三十代半ばくらいだろうか。
落ち着いた雰囲気の女性だった。
太郎はもともと落ち着いた雰囲気の人が好きだ。
最初はただの同僚だった。
「支店長、コーヒーどうぞ」
ある夜遅く、沙織が紙コップを差し出した。
「ありがとう」
太郎は受け取った。
「今日も遅いですね」
「まあね」
「家の人、心配しません?」
その言葉に、太郎は少しだけ笑った。
「慣れてるよ」
沙織はそれ以上聞かなかった。
ただ静かに「そうですか」と言った。
その距離感が、太郎には心地よかった。
無理に踏み込まない。
でも、ちゃんと気にかけてくれる。
それは、家では感じたことのない感覚だった。
少しずつ、会話が増えた。
仕事の話。
葬儀の裏話。
どうでもいい世間話。
笑うことも増えた。
ある夜、仕事帰りに二人でコンビニに寄った。
駐車場で缶コーヒーを飲みながら、沙織が言った。
「支店長って、優しいですよね」
「そうか?」
「はい。遺族の人に話すとき、すごく丁寧だから」
太郎は少し照れた。
「まあ仕事だから」
「でも、みんなできるわけじゃないですよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
家では聞いたことのない言葉だった。
それからだった。
太郎が、少しずつ変わっていったのは。
最初はただ、話しているだけだった。
それだけで十分だった。
だが人は、温もりを知ると欲が出る。
ある夜、仕事が終わったあと、二人は居酒屋に入った。
特別な意味はなかった。
ただ「お疲れさま会」という名目だった。
だが帰り道、駅前の灯りの下で、沙織が言った。
「支店長って……寂しそうですよね」
太郎は驚いた。
「そんなことないよ」
「嘘です」
沙織は小さく笑った。
「なんとなく、わかります」
その瞬間、太郎の胸の奥に溜まっていたものが揺れた。
家庭でも職場でも誰にも言えなかった感情。
孤独。
「……まあ、少しはな」
太郎は初めて本音を漏らした。
その夜、二人は長く話した。
家庭のこと。
仕事のこと。
人生のこと。
そして帰り際、沙織が言った。
「無理しすぎないでくださいね」
その言葉が、太郎の胸に深く残った。
それは、ただの優しさだった。
だが太郎は、その優しさに少しずつ依存していく。
気づいたときにはもう、引き返せない場所まで来ていた。
長年続いた夫婦の沈黙。
居場所のない家庭。
その隙間に、静かに入り込んだ感情。
それが——
太郎の、新しい浮気の始まりだった。




