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背信 武と悠一  作者: マーチン中井
4/6

その四

 悠一は学業の傍ら、ワンゲル辺りに籍を置いて、山歩きなどを楽しんでいたが、なにしろ、あの悠一だ。たぐいまれな体躯と知識で、たちまち山岳部の連中に引けを取らない登山技術を体得していた。

そして、折りを見ては、俺を誘ってくれるんだ。例によって、山の楽しさを手取り足取り指導してくれて、俺もいっぱしの山歩きになって行ったよ。

 俺が大学を卒業する直前の冬。俺たちは、日本アルプスに挑戦した。そこで、俺たちは九死に一生を得る事になる。

夏に、一度、辿った事のあるルートだが、西穂高から奥穂高に到る稜線を厳冬期に挑戦しようと言う訳だ。北アルプス屈指の難コースとして定評があるが、その分、人気も高く、年間通じて万余の登山者が訪れる。したがって遭難も多い。死亡者も二桁台になる年もある。最も多いのが滑落による事故だ。左右急こう配の、三角木馬の頂点上を歩く様な尾根が続くんだ。意外と夏場に多発する。滑落による遭難の場合、目を背ける様な悲惨な遺体となって発見されるケースが多い。滑落途上で何度も岩場に激突するからだ。そんなルートでも夏冬問わず挑戦しようと言う手合いが後を絶たない。それほど登山者の心に響く何かがあるのだろう。晴天に恵まれた時の、雪に覆われた峰々。雄大な景色もさることながら、急峻な尾根を、雪を踏み締め、一歩一歩辿り、時にザイル一本に命を託す極限を味わう。クライマーズハイを経ての、達成感は何物にも代えがたいのだろう。言わば健康的な中毒だな。

 俺たちはハーネスを始め、完全装備で山荘を出発。良く晴れた清々しい朝だった。先導は勿論、悠一。ザイルで結ばれた俺には何の不安もなかった。全てを悠一に委ねて居れば無事、奥穂高の山荘に、夕刻には辿り着く予定だった。昼前に西穂高岳を制して、休憩に入った。この頃から天気が急に崩れ出した。低気圧が近づいていたのは承知していたが、夜までは持つはずだったんだ。昼飯もそこそこに、俺たちは出発した。雪が降り始め、風も強くなる。

 吹雪の中の歩みは危険極まりない。何しろコースがコースだ。いつ、足を踏み外すか知れたもんじゃない。安全を確かめながら、悠一は、一歩また一歩と進む。亀の歩みより、遅くなった。それでも、俺たちは、少しでも前進しようと頑張った。このまま日が暮れると、凍死の恐れがあるからだ。夜になれば、氷点下30度を下回ることだってあるんだ。

凍死か滑落か、どちらにしても、極限の選択を迫られている状況だった。

 やがて、吹雪は猛烈になり、遂に、ホワイトアウトになった。悠一はザイルを手繰って俺を引き寄せた。ものの四、五メーターしか離れていなかったのに、俺には前を行く悠一が見えなかった。奴の顔が見えたのと、肩をがっしり掴まれたのが殆ど同時だった。

「ここしかない。吹雪をやり過ごす! 」

悠一の背後に密着する岩肌が見えた。悠一が叫ぶように言った。

「猫の額ほどの平地しかない。テントは無理だ。ビバークする。すまない! 」

 元々、バリエーションルートのコース決めは『ルーファイ』に長けた悠一の勘に頼るしかなかった。

俺に否やはない。悠一の決断に従う。

俺たちは岩肌に沿って、二人が横になれるほどの窪みを雪をかき分けて造った。岩の反対側にリュックを並べて雪で固め、風除けにした。数メートル先は、多分、急峻な崖になっているだろう。もしかしたら、そんなにないかも知れない。

悠一は自分のリュックから寝袋を取り出し、窪みに敷いた。大人二人が入れるサイズのシュラフだった。悠一が俺に、先に入る様に促した。俺はストリームジャケットの雪を払い、シュラフに潜り込んだ。そのあと、悠一が、シュラフの岩側に入って来た。190センチと90キロの巨体で重心を定める積りだったのだろう。腰ぐらいまで、にじり入ったところで、悠一は手にしていたツェルトを拡げ、足元から頭まですっぽり、シュラフを覆った。リュックとの段差を利用して空間も作った。それから更ににじり下りて、左手を俺の首に巻き込むようにしながら、右手でシュラフのジッパーを引き上げた。

 着込んでいた所為もあり、上向きには、なれない。窮屈な寝袋の中で二人は抱き合っていた。ツェルトの生地を通しての淡い光りで悠一の顔が目の前にあるのが分かった。奴は両手両足で俺を抱きすくめるような格好だったんだ。身長差を考えると当たり前だが、対等の目線で俺はチョッピリ嬉しかった。

極限の状況なのに、親鳥に抱かれた小鳥の様に俺は安心しきっていた。時折感じる悠一の吐息すら、頼もしく感じた。

「すまない……」

悠一は何度も、そう言っては、俺を抱きしめた。着ぶくれて、伝わるはずのない悠一の鼓動が感じられるほど切ない響きだった。

「ナニを謝ってるんだ。こうなっているのはお前の所為じゃない。それに、親友と生死を共にするなんて、貴重な体験だ。俺は、お前の親友だと思えるだけで誇らしかった。今、お前と運命を共にしている事自体、俺には過ぎた話だ。どうなろうと悔いはないよ! 」


 俺の本音だった。しかし、実際には、それほど深刻には考えていなかったよ。悠一がいる限り大丈夫だと言う確信みたいなものが有ったのさ。

吹雪が弱まってきたのは、夜になってからで、代わりに寒さが厳しくなってきた。

にも拘らず、俺は悠一の懐の中で眠っていたのさ。バカみたいに安心しきって……。


 目覚めて、最初に飛び込んで来たのが悠一の瞳だった。

「おはよう」

多分、悠一は、不測の事態に備えて、眠らなかったんじゃないかと思った。

「眠らなかったのか? 」

「いや、ウトウトしたさ」


 悠一が寝袋から抜け出し、テント代わりのツェルトを外した時には嘘のように、吹雪は収まり、抜けるような青空が広がっていた。俺たちは危機を脱した。携帯式のコンロで悠一が淹れてくれた一杯のインスタントコーヒーは痺れるほど美味かった。刺すような真冬の冷気すら爽やかに感じられた。青空を背景に北アルプスの峰々が聳え立つ光景は生涯忘れない。

 遠くを見やる友の横顔は朝日を受けて輝いていた。


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