野心は流れ、そのままに
聖人役はミマ。ミマはもともと聖人のような感じなので、イワはたいして役の心配をしていなかったが、ミマは演技中も最近ぼんやりすることが多いのでイワは一度部屋に呼び出した。
「お前のうすぼんやりした顔は阿呆役にはいいかもしれんが、聖人には見えない」
ミマはその穏やかそうな顔に変にしわが寄っている。こいつもしかして悩んでいるのか?
イワは薄笑いを浮かべた。
「……劇長、もしかしてアイくんは、僕たちとは違うんですか」
ふっと息を吸って、その透明な瞳でイワを見上げた。祈りのような感情が浮かんでいる。
「違うとは」
意図せず警戒する口調になったイワに、「アイくんは才能がある。そしてその才能で僕たちとは違うことをしようとしている。そうなんですね」
イワはちっと舌打ちした。もともとミマの出自には疑問があった。賢すぎるのだ。
「僕はずっと不思議な感覚で気持ち悪かった。貴方とアイくんが何をしているか、何を共有しているか。
あなた方は芸術をしているんですね……今までの金儲けではなく」
ミマの声に特に感慨はなく、とても自然な語調だった。けれどそのときイワは自分でも驚くほどの感情の揺れに襲われた。
指摘されたことに対して、強烈な後ろめたさを感じたのだ。今まで劣悪な精神を装い、実際にそうだったが、それでも「芸術」をしている。そう喩えられたことに、羞恥を感じたのだ。
「あなたこそ美しいものを愛している」
言葉に、とどめを刺された気持ちで、しばらく口を開閉させた。
「冗談だろ……」
否定する言葉はうまく嘲弄の雰囲気を出せていたが、わずかに掠れた。
ミマは反応に空気を震わせるように苦笑し「いいんですよ」とうつむいた。
「僕は応援します。何もないここで、芸術ができるなら、僕はできる限り全うしたらいいと思うんです」
イワはふと、ぐるりと世界が回る心地がした。イワはアイをつかい、個々の下劣な民に、「何か」を「伝え」ようとした。そして今、イワはそのことをすべてうっちゃって、野心のために動くことを決意したのだった。だからミマの今更な応援は遅かった。
「劇長、僕に聖人とは何か教えてください。僕はアイくんといいものをつくりあげたい」
イワは台本を転がした。
どいつもこいつも、ばかみたいに教えて教えてと、こいつらはわかれば演技できるのか、うらやましい限りだ。くっと呻いて、目だけぎらつかせた。
「どうしてお前は許してくれない。なぜ、自分だけは美しいと確信していられる。なぜおまえは見てくれないんだ。見たら助けが必要だとわかるはずなのに」
それが人が神に対して思うすべてじゃないのか、とイワは髪の隙間からミマに言った。
ミマはしばらくイワの瞳だけを食い入るように見ていた。
「お前は不寛容だ」
イワは穏やかな声で、半ば叫ぶようにミマを指さした。ミマの表情に不可解な微笑が浮かび、それがすぐさま身体姿に調和した。
ミマはぼろ布を翻し、一言も発さずに扉に向かった。イワはもはや聞こえないだろう声で、「お前は非道だ……」とつづけた。
王女の気持ちが分かる、とアイが言った。初演まであと二日だった。いつもの部屋で、イワは椅子に座り、ひじ掛けに足を載せていた。
「私は熱烈に嫉妬する」
燃えるような声で、浮世から遠い瞳でアイは言う。その瞳はじっとイワに注がれている。王女のセリフだった。
「私の醜さを許容しない聖人」
アイはぽつりと口の中で言葉を転がした。
「あなたが一番、ものが見えていない。信仰に心をささげ、ほかを蔑ろにした」
でも愛している、苦渋の声だった。
「あなたは私をないがしろにした」
悲しみの声ではなかった。
アイの瞳は理不尽への挑戦と輝く生命の美があった。
アイの体が目の前で揺れる。踊りを頭の中で踊り、それが体に現れているのだ。それは妖艶な踊りではなく、荘厳な神への捧げものでもなく、人間が見るべきものをみさせようとする挑戦の舞だった。
初演はわずかなる歓声の終了した。皆、今見せられたものについて考えていた。
イワは舞台のはじでしばらく腕を組み、すぐさま首を振った。
芸術よりも上のものはある。とそう結論したのだ。今やった劇は素晴らしかった。が上はある、それは権力だ、と考えた。
アイとの約束があったが、黄に先に話がある。
黄は舞台席にいた。ひとりで舞台を見ている黄に顎をしゃくり呼び寄せる。
黄はぼんやりした瞳で口を開きかけ閉じるというのを繰り返し、深く息を吐いた。
「私は……イワ、あなたを尊敬する」
「はあ」
イワはひん曲がった声と同時に、体までひん曲がった。
「私は、いや俺は見ていて、もう悔しかった。どうしてこれが街の中央の大劇場でできなかったのか。なんで俺一人が馬鹿面で見て、皇太子もヒスギ様も見ていないんだ」
黄に目線を止めて、足元によって来たジェイを撫でた。
「ほめてるわけか? まあいいが、これはここの住民には受けないだろうよ」
「そうかもしれないが。素晴らしいことは確かだ。それで、アイ様のことだが」
黄は声を切り替え、眉を寄せ表情を取り換える。
「やはり、一刻も早く皇太子妃に会ってもらいたい」
そうだな、とイワはジェイを撫でながらうなずく。
「正直、アイ様がこのように舞台に出ることは危険だ。皇太子はアイ様を狙っておられる。見つかれば殺されることはないかもしれないが、牢屋に一生つながれる」
ああ、とイワは息を整え、「だからこの劇はこれでしまいだ」という。誰にも言っていなかったが、この劇は初演が最初で最後、もうやるつもりがなかった。アイとイワの二人には明かして、発破をかけるつもりだったが、なぜか喉が詰まったように言葉が出なかった。だから二人はまだ演技できるつもりでいる。イワは嫌気がさす、内臓が胸焼けしたような感じがしたからだ。
「ではヒスギ様にすぐに連絡をとる」
黄は頷き、決意に満ちた顔で素早く劇場の外へ出た。
イワは耳元でアイが躍ったときの音楽が鳴っていた。ボロボロの座席に、座り、ジェイを撫で続けた。
劇場の外で、黄の叫びが短く聞こえた。「アイ様!」その言葉のように聞こえた。
イワは立ち上がり舞台にあがる。舞台の上でゆっくり肩をほぐし、手を広げる。
舞台の袖から、普段の襤褸服を身にまとった汗だくのアイが顔を出し「黄さん、何かあったんですか?」と聞く。その瞬間、もはや客が散った座席に甲冑をまとい、赤や青黄色の飾りをつけた兵士たちが現れた。
「なんの用だ」
とイワが叫ぶ。すると、一人がすらりと剣を構えてみせ、また一人は弓を引き絞って見せた。視線は真っ黒な髪のアイに向かっている。アイは混乱し、一瞬のうちに全てを理解したのか、一歩踏み出して、「劇団には……」と言いかけた瞬間、矢が射かけられた。びゅんと風を切っていたが、もともとイワは真ん中で手を広げていたのだ。アイを庇うのは余裕だった。
「劇長!」
アイが驚いて、唇をわななかせた。イワはニヤッと笑った。ジェイが足元で傷を治してくれるから大丈夫であると見当をつけていたのだ。
「あっ」
しかしアイの瞳は恐怖におののき、周りに不穏な増幅する力の気配があった。
「お前ら、こいつが呪いの力を持っていること忘れているんじゃないか」
にじり寄る兵士たちに、イワは嘲笑の口調でたたきつける。すると少し空気が変わる。
緊張の中、ずるずるとモノを引きずる音がことのほか響いた。
ひときわ良質の甲冑を身に着けた男が、剣を右手に、左手は血だらけの男の襟首をつかんひきずっていた。
黄は胸から腹にかけて深々と払われ、血がとどまる様子もなく流れ出ていた。イワは鼻で笑う。まるで殿上人の所業だ。何の罪もない庶民を言いがかり一つで切り捨てる。そんな傷口だった。死につながる傷だ。
アイの、その藍色の瞳に驚きとそして押し寄せる悲しみが浮かんだ。アイは傷ついていた。そしてイワも、内側から押し寄せる波を、歯をかみしめ耐えた。
「殺さず、生け捕りにせよと命じられた」
黄を片手に男はよくとおる声で堂々と言う。
イワは口笛を吹いた。そしてわけもわからない歌を歌って、くくくと笑った。




