劇は流れ、胃痛だけ
途中で観客のごくりと息をのむ音も、吸い寄せられる視線も、これほど分かった舞台はなかった。イワはその出来のすばらしさ、いましかできぬ輝きに、自分自身恐れ慄き、しびれた。
「格好いい劇だった」
イワは終わった後に、全員に言った。全員がほおを紅潮させ余韻を感じていた。
「さて、じゃあ、次は教育の時間だ」
イワがするりというと、さあと空気が青白く後ずさりした。
「アイ、お前からだ」
イワはジェイを無理やり膝にひきよせると、無表情で空虚な顔を引き続きしているアイに「おまえはなったのか、それともならされたのか」と質問した。
「さあ」
アイの答えに、イワは暴力をふるうことをせずに、リンリンに「今からアイと寝るんだ」といった。
イワがいらつかないぎりぎりのうちで、リンリンは行動を開始した。服を脱ぎ、アイの服を脱がせ、何やらごそごそとして、リンリンは無表情のアイの上にまたがった。
イワは横から、意地悪な姑みたいに盗み見た。
「アイ、私に怒って呪っても、リンリンの身体が吹き飛び」という。リンリンはおびえてかたくなり、痛みに泣いている。アイの顔は氷のようにとろりと表面がぬめり、そろそろとシズクが垂れた。瞳から氷が解けた。
「自分でなることを選ぶんだ。それが自尊というものだろう」
イワは舅みたいに盗み見ながら説教した。
次の日から、アイの演技は少し落ちた。けれどなぜか客席からすすり泣きのこえがするようになった。そのころになると、イワはアイが天に選ばれていることが分かった。自分ではない誰かが、えらんだのだ。イワが不快なことであった。
しかし、イワも天と同様にアイに決めてしまった。アイを選んだのだ。
次のアイの役は、美しい王女だった。
とある国の美しい王女は牢につながれた聖人を愛してしまう。王女は牢の聖人に「こちらを見て」というが聖人は受け入れず、王女を「背徳、誘惑の王女」と蔑む。そして王女は、義理の父である王を妖艶な踊りで誘惑し、舞踏の褒美として「聖人の首」を所望する。盆に乗った聖人の首をもち、それに接吻する。その後、聖人を殺した業により、王女と王と王妃は荒野を貧しい身なりでさまよう。
「おれが王女の役ですか」
アイは最初驚いたようだったが、イワが「おまえ踊りが上手だろ」というと納得していた。
「おれは、嫌いです。この役」
普段、つべこべ言わないところがアイの美点であるが、よほど気に食わないのだろうアイはそう言った。イワはおしゃべりな人間を毛嫌いしているが、ときたまぺらぺらぺらぺら話したくなる時があり、いまがそのときだった。
「おれは、この聖人が嫌いだ。まあ好き嫌いはどうでもいいが、荒野をさまようときの顔、ちゃんと考えろよ」
「王女はとても憔悴している顔をしていると思います」
アイの平坦な言葉に、イワはおっという顔をして「なぜ」ときいた。
「それは……そうでしょう。だって放浪してるから」
あまりにも頭が空っぽの発言に、イワは「ほら」とジェイをけしかけた。ジェイは喜んでアイをガジガジ噛んだ。アイは最近慣れてきたので、血だらけのふくらはぎのまま「教えてください」といった。卑屈さも恨みもない目である。
イワは教えろと言われても、困った。最近はアイの演技を信じ、それにただただ乗っている。演技者任せである。しかも演技指導はどちらかというと慈善で、自分の仕事とも思っていない。
「そうだな……これはどういう物語にしたいかお前が選べるんだと思う。だから意味を考えろ。お前はどうして王女が嫌いなのか。聖人をどう思うのか」
それくらいだな、とイワはもごもごいい、変な気分になった。アイを直視できない、暴力をふるいたいような感じだ。
「どういう物語……?」
理解できないのか、その瞳のうえの眉を苦しそうに歪める。
「おまえ、意味を考えたことないのか? ……明日ちょっとついてこい」
劇団のご近所に女装集団の売春宿がある。どろどろの化け物ぞろいではあるが、ごくわずかな特殊な欲を満たすものではあるらしく、食うには困っていない集団だ。イワは割と、この集団を参考にサービス精神というものを身に着けた。
アイは黙ってついてくる。イワはそっと周囲を見回した。女装集団の客がいないかを確認したのだ。女装集団はまだ正常の範囲に入るが、その客は精神的な外郭が明らかに形成できていない。遭遇するのは勘弁したかった。
斜めに傾いた4本の棒の上に屋根がかぶせてあり、壁は変な布で作られている建物にも、戸惑うことなく飛び込んだ。
「きゃああああ」
飛び込むと茶をひいていた3人の売春婦がいる。その三人のうち一人、一番人気のホーに「用がある」と切り出した。未だに目を丸くしていたが、ホーはふうと息を吐いて、
「イワが買ってくれるの?」
と顔に似合わないかわいらしい顔で聞いた。イワはよくもそんなこと、とその軽口にむかっとした。こんな化け物買うなんて人格破綻者もいいとこだ。
「違う。こいつだ」
といってイワはぽいっとアイを化け物集団に引き渡した。ぎゃあ、とかおうとか言いながらも三人はアイの容貌に、やんとかキラキラした目を向けた。
「このこ? まっかわいー」
ホーはうっとり目を細めた。ちろっと赤い舌が見えた。二股だ。
「客じゃない。雇ってくれ」
イワは冷静に言うと、流石に無表情で服をはたいていたアイの顔色が変わった。
「えっ」
「どういうことなの?」
質問に、「次の劇で必要なんだ」とアイは懐から絵を出した。最近イワは営業に目覚めている。それは絵の上手なリンリンに書かせたのだ。近所の黒炭売りに頼み込んで細く削り、描いたものだ。
「処刑図……?」
震えあがったようにホーが言う。イワは曖昧にうなずいた。多分違う。
「今度やる劇で、アイが女装する」
女装などというものとアイの変化を一緒にしたくなかったが、そういった。営業の一環だ。
「へえ」
三人は興味がわいたようだった。
「で、女よりもなんというか、お前らに教えを乞うたほうがいいよ思ったんだ。アイのケツを守ってくれれば、まあ何をさせてくれてもいい。お前らから上にそう伝えといてくれ。頼むぞ」
アイは小さく息を吐いてうなだられている。頬にきれいな青がさしている。その小さくてとがった耳にイワは唇を寄せた。そっとささやいた「自分の身は自分で守れ、どうせここの店主はお前のケツを守ってくれない。やばくなったら、客の一人や二人きりつけてでも逃げられる」言い終わってから、口の中からどぶの匂いがすることに気付いて、あとでそこらの水たまりで口をゆすごうと思った。
イワはいらなくなった衣装の備品をいくらか土産代わりにおいて、そのあばら家から出た。
イワがぶらぶら歩いていると、道の先に何やら目的をもって歩いている黄の後ろ姿が見えた。イワは見知った人がいたら声をかけるという平均的なことを思いつかない人間で、「いるな」と思っただけで、ぶらぶら歩き続けた。しかし行く道が一緒だったので、あとをつける形になってしまった。
黄の背がちょっと揺れ立ち止まり、振り返った。目はしっかりとイワの瞳に固定されている。だいたい検討をつけて振り返ったのだろう。
「付けてるのか?」
「いや、前にお前がいたんだ」
そうこたえながら、イワはぶらぶら歩いた。立ち止まった黄に並ぶが、立ち止まる気はない。黄を追い越して、その先の飲み屋でちょっとごみでも拝借するつもりだった。
「ちょっと待て」
黄はイワの肩に手を置いた。その力の強さにイワは笑って、「按摩師よりも上手だ」といった。イワは黄の営業能力に一目置いており、わりと好意的だった。
「すこし話したいことがある」
黄の瞳は剣呑であったがイワは陽気に「おごってくれ、そこの飲み屋に入ろう」とにやっと笑った。




