第五話 東家の秘密
真理子ちゃんの家庭教師も、とうとう最後の日になった。
二日後には高校受験があり、その一週間後には合格発表だ。 真理子ちゃんはコツコツと勉強を続け、志望校も安全圏内。
よほどのことがなければ合格できるだろう。
二年間、温泉街の横を通り、あの薄暗いトンネルを抜けて東家に通った。
すっかり仲良くなった真理子ちゃん、優しいおばあちゃん、 冬の間、私が車を停めるスペースが凍らないように ホースで水を流しておいてくれたおじいちゃん。 居間から顔をのぞかせるぽっちゃりした朗らかな弟、 早帰りのときには丁寧に挨拶してくれるお母さん。
この家族と会えなくなると思うと、心がしんみりするような、そんな寂しさを覚えた。
最後の授業を終え、階段を降りると、おばあちゃんが待っていた。
「先生、今日もありがとうございました。 今日は最後だから、ケーキを用意してあるんで、食べていってください。」
「お気遣いありがとうございます。でも、明後日受験ですし、今日は帰ろうと思います。」
遠慮したつもりだったが、 おばあちゃんと真理子ちゃんは顔を見合わせ、 どこか慌てたように私を引き止めた。
「大丈夫ですよ。ねえ、まりちゃん。ほら、先生に言って。」
真理子ちゃんも、少し動揺した様子で言った。
「先生、今日は最後の日だから……ケーキ、食べていってください。」
何かおかしい。
でも断れない雰囲気だったので、 悪いと思いつつもケーキをご馳走になることにした。
「良かった。先生が食べていってくれて。」
おばあちゃんはほっとしたように言って、紅茶を出してくれた。
そのとき、弟がぽつりと言った。
「だって、お父さんが帰しちゃダメだって言ってたもんね。」
空気が止まった。
おばあちゃんは慌てたせいか茶碗を倒し、 こぼれたお茶を拭きながら弟を睨んだ。
「まあまあ、先生すみません。粗相をしてしまって。」
弟は気にも留めず、鼻歌まじりにケーキを食べている。
東家の家族には一通り会ったが、 お父さんだけは一度も会ったことがない。
話題に出たこともない。
その“お父さん”が、どうして私を帰してはいけないと言ったのか。
だが、ここで聞いてはいけない雰囲気だ。
当たり障りのない話をして帰ろうとしたとき、 弟が居間の戸を開けて廊下の向かいの部屋に入った。
開いた戸の向こうに、畳の和室が見えた。 仏壇があり、男の人の写真が置かれている。
年の頃は、真理子ちゃんのお母さんと同じくらい。
それは、真理子ちゃんのお父さんだろうか?。
でも、弟はさっき「お父さんが、言ってた。」とはっきり言った。
亡くなっているはずの人が、どうして“言う”ことができるのか。
その疑問を飲み込み、私は東家を後にした。
帰り道、信号でもないのに車が列をなして渋滞していた。
十分ほど待ってようやく動き出すと、 事故現場が見えた。
三台が絡む事故で、 一台はフロントが潰れ、 一台は運転席側が押しつぶされ、 一台は横転して三メートルほども先に飛ばされていた。
救急車が負傷者を救護している。 ガラスの破片が道路に散らばっていた。
私はさらに慎重に運転し、無事家にたどり着いた。
翌朝、地方ニュースで事故の報道が流れていた。
「昨夜午後八時四十分頃、交差点で信号無視の車が直進車と衝突し、 直進車の女性一名が死亡しました。」
午後八時四十分。
私がいつも通り東家を出ていたら、 ちょうどその交差点を通る時間だ。
弟の言葉がよみがえった。
「お父さんが、帰しちゃいけないって言ったから。」
腕と背中に鳥肌が立った。
もし私がいつも通り帰っていたら、あの事故に巻き込まれていたかもしれない。
東家の家族は、 “向こう側”からの声を聞いていたのだろうか。
しばらく考えたが、もちろん答えはでなかった。
その後、真理子ちゃんは無事に高校に合格した。
お祝いを届けに東家を訪れると、 家族はいつも通り穏やかで優しかった。
居間でお茶をご馳走になり思い出話をしながら、 この家族と、この家と、この道中の景色すべてが 私を優しく迎え入れてくれていたのだと気づいた。
お礼とお別れを告げて車を発進させると、 胸がいっぱいになり、自然と涙がこぼれた。
そのとき、突然、男の人の声がした。
「また来てやってください。いつでも歓迎ですよ。」
車の中には私しかいない。
声が聞こえたのか、 頭の中に響いたのか、わからない。
でも、はっきり聞こえた。
真理子ちゃんのお父さんだ。
間違いない。
私にも聞こえた。
「お世話になりました。 きっと、また来させてもらいます」
私は声に出してそう言った。
その瞬間、 風がふっと車の窓を撫でたような気がした。
まるで、 “向こう側”からの返事のように。




