第二話 おばあちゃんの話
東さんの家に着くと、まず小さな橋を渡る。
橋の下では小川がさらさらと音を立て、私を清々しい気分にしてくれた。
車を駐車スペースに止めて玄関へ向かうと、 四枚のガラス戸が夜の月光をうっすらと反射していた。
ガラス戸を開けると、広い土間があり、 正面に一メートルほどの上がり框、 その奥が居間になっている。
「こんばんは」と声をかけると、 たいていは居間から真理子ちゃんが顔を出し、 一緒に二階へ上がっていく。
真理子ちゃんは色白で、 ボブカットの髪がよく似合う落ち着いた雰囲気の女の子だった。 成績も安定していて、私にとっては優良な生徒だ。
一時間半ほど勉強をしたあと、 階段を降りると、 いつもおばあちゃんが居間から出てきてくれる。
「今日は来週のテストに向けて復習をしました。 真理子ちゃん、文法が少し苦手でしたが、 今日でだいぶ理解できたと思います」
おばあちゃんは大きく頷きながら聞いてくれる。
小柄で、長年の畑仕事のせいか腰が少し曲がっていた。
いつも穏やかで優しく、 野菜や果物をよくお土産に持たせてくれた。
その日も、勉強を終えて階段を降りると、 おばあちゃんが四角い包みを手にしていた。
「先生、今日もありがとうございました。 これは温川温泉の温泉饅頭です。よかったら」
「温川温泉に温泉饅頭が売っているんですか? お土産物屋があるの、気づきませんでした」
おばあちゃんはにこやかに首を振った。
「温川温泉にお土産物屋はないんですよ。 宝玉館っていう宿、知ってますか?」
「名前まではちょっと……」
「あそこでね、温泉饅頭を作って売っているんです。 昔、私もそこで働いていたことがあってね」
おばあちゃんは、懐かしむような、 どこか照れくさそうな表情をした。
「五年くらい勤めたかな。 温泉だから活気があって、楽しかったですよ。 あそこには座敷童もいたしね」
さらりと言われたその一言に、 私は思わず聞き返した。
「座敷童?」
「んだんだ、座敷童」
おばあちゃんは懐かしそうにうなずいた。
「一度だけ見たことがあるんですよ。 中居をしていたから、お客さんが出たあとに掃除をするんだけどね。 誰もいないはずの部屋で、小さく子供の笑い声がしてね。 柱をちょこちょこっと駆け上る影が見えたんだ」
背中がぞわっとした。
「怖くなかったんですか?」
「それが、ちっとも。 悪いものじゃないって、なぜだかわかるんだ。 今思い出しても、気持ちがあったかくなるような、 そんなものだったよ。 あれは何かの神様かもしれないね」
少し間を置いて、おばあちゃんは続けた。
「この土地はね、昔から“向こう側”が近いって言われてるんだ。 座敷童も、神様も、亡くなった人も…… みんな、あっちとこっちの間を行き来してるんでしょう。」
おばあちゃんの声は穏やかで、 その“あったかさ”が胸の奥まで染みてくるようだった。 私はほっとした。 怖い話だったら、帰り道のあのトンネルが いつも以上に怖くなってしまうからだ。
「あれあれ、先生、長話してしまって。 帰りが遅くなってしまうね」
おばあちゃんはそう言って笑った。
座敷童の話はそこで終わったが、 私はもっと聞きたかった。
あの温泉宿には、昔から何かいわれがあるのだろうか。 それとも、おばあちゃんがたまたま見かけただけなのか。
気になったが、時間も時間だったので、 その日は退散することにした。
また今度、おばあちゃんに聞いてみよう。




