《閲覧》偽装
親フェンリルの耳がぴくりと動く。
琥珀色の瞳が、俺の手元の薬草を見つめていた。
「グルル……」
低いうなり声。
一歩でも間違えれば飛びかかってくる。そんな張り詰めた空気だった。
俺はゆっくりと膝をつく。
「動かない。だから、お前も無理をするな」
武器は腰にしまったまま。
薬草だけを取り出し、子フェンリルへ視線を向ける。
右前脚は裂け、まだ血が滲んでいる。
「痛かったな」
そっと薬草を傷口へ当てる。
子フェンリルはびくりと身を震わせた。
「キャンッ!」
思わず身を引こうとする。
「大丈夫だ。少しだけ我慢してくれ」
できるだけ刺激しないよう、薬草を巻いていく。
その間も親フェンリルは俺を睨み続けていた。
少しでも子どもに危害を加えれば、その瞬間に俺は終わりだろう。
やがて止血が終わる。
子フェンリルは恐る恐る足を地面につけた。
「キャン……」
さっきよりは痛みが和らいだようだった。
《閲覧》を使う。
【幼いフェンリル】
Lv.8
状態:右前脚裂傷(軽減)
感情
・おかあさん
・こわい
・いたくない
少しだけ表情が緩む。
「よかった」
そう呟いた瞬間だった。
「グゥ……」
親フェンリルがゆっくりと頭を下ろした。
敵意ではない。
ただ、限界だったのだ。
傷口から流れる血が、再び地面を赤く染める。
《閲覧》。
【フェンリル】
Lv.58
状態:重傷・出血
感情
・こども
・まもる
・ありがとう
「……ありがとう、か。」
さっきまで無かった文字だった。
どうして増えたのかは分からない。
けれど、その感情を裏切るわけにはいかなかった。
「何とかしないと。」
血痕を見つめ、考える。
落ち葉で隠す?
いや、すぐにばれる。
土をかけても匂いは消えない。
考えろ。
何か――。
「ぷる?」
足元から小さな鳴き声が聞こえた。
見ると、スライムが血だまりをじっと見つめている。
「おい、待――」
止めるより早く、スライムは身体を伸ばした。
ちゅる……
赤い血が、ゆっくりと身体へ吸い込まれていく。
「え?」
血だまりが見る間に小さくなる。
やがて、一滴残らず消えてしまった。
スライムはぷるんと身体を震わせる。
「ぷる!」
「……消した?」
思わず地面を触る。
血はない。
匂いもほとんど残っていない。
「そうか……!」
俺は血痕の続く森の入口へ視線を向けた。
「全部消せれば……。」
その時だった。
ゴォーン……。
森の静寂を破る重い鐘の音が響く。
ゴォーン……ゴォーン……。
俺は顔を上げた。
「あの鐘……。」
町で何度も聞いた音だ。
「討伐隊の出陣だ!」
もう時間がない。
「スライム!」
俺は血痕を指差す。
「全部吸ってくれ!」
スライムは勢いよく跳ねた。
「ぷる!」
ちゅる。
ちゅるる。
森へ点々と続く血痕が、一つ、また一つと消えていく。
その間、俺は枝を拾い、フェンリルの足跡を崩した。
爪痕を土で埋める。
血の付いた石を裏返す。
倒れた草を起こし、落ち葉を散らす。
「急げ……。」
鐘の音が止んだ。
もう出発している頃だ。
スライムは最後の血痕まで吸い終えると、俺の前まで戻ってきた。
身体は少し赤く染まっている。
「よし。」
俺は森の反対側を指差した。
「あっちに川がある。」
「そこで、この血を吐き出してくれ。」
「討伐隊を、こっちへ来させないために。」
スライムはじっと俺を見つめた。
言葉を理解したように、一度だけ身体を弾ませる。
「ぷる!」
次の瞬間、小さな身体が森の奥へ駆け出した。
「頼んだぞ。」
俺は親フェンリルへ向き直る。
「もう少しだけ耐えてくれ。」
親フェンリルは静かに目を閉じ、小さく鼻を鳴らした。
まるで任せると言っているようだった。
数分が、何時間にも感じられる。
遠くからは木々を揺らす音。
鎧が擦れるような微かな響き。
討伐隊は、もう森へ入っている。
「間に合ってくれ……。」
祈るような気持ちで待っていると。
「ぷるーーっ!」
元気な鳴き声が聞こえた。
振り向くと、スライムが勢いよく跳ねながら戻ってくる。
赤かった身体は、川で洗われたように元の透明な青へ戻っていた。
「戻ったか!」
思わず《閲覧》を使う。
【スライム】
Lv.10
状態:満腹
感情
・ごしゅじん
・がんばった
・やくにたった
「……レベル10?」
俺は目を疑った。
「一気に?」
昨日までレベル一だったはずだ。
戦ったわけでもない。
魔石を食べたわけでもない。
なのに、どうして。
「血を吸ったから……?」
そんな話は聞いたことがない。
首をひねる俺をよそに、スライムは誇らしげに胸――いや、身体を張る。
「ぷる!」
思わず笑みがこぼれた。
「ありがとう。本当に助かった。」
スライムは嬉しそうに身体を揺らした。
その直後。
森の奥から、かすかに人の声が聞こえてきた。
「こっちだ!」
「血痕が続いているぞ!」
俺は息をのむ。
声のする方向は――。
フェンリルとは、正反対だった。
「……成功した。」
討伐隊は偽の血痕を追っている。
俺は静かに安堵の息をつき、親子フェンリルへ視線を向けた。
だが、この時はまだ知らなかった。
その隊の先頭に立っているのが、かつて俺を追放したパーティーリーダー、レオンであることを。




