選び取り、掬いあう
生命の循環を剥がされ、殺され続けた異形が崩壊していく。その光景を、教皇はいつもと何も変わらない空っぽの瞳で眺めていた。
「届かなかったか」
声にもやはり感情はない。事実をただ確認しているだけの独り言だった。
杖をついて、どこを目指すでもなく歩き始める。その機を見計らって、教皇の背に殺さない程度に加減された濁流が襲いかかり、悪魔の封印に用いられていた鎖が放られた。
「『虚空・海底・地の獄・円環・鎖の縛り』──見よう見まねだけれど、元が悪魔なら効くだろう?」
「ああ、お前は手順を知っていたな。アンナリーゼ」
「ふん、安すぎる退職金の報いだ」
本来なら数人がかりで行う封印だが、教皇の抵抗のなさとアンナリーゼ自身の出力が相まって束縛が成立する。アンナリーゼはふぅ、と嫌悪を露わにしながら呼吸を整える。
アンナリーゼが振り返れば、人型になったアゥダーリーが怒りと困惑を剥き出しにして教皇を睨め付けていた。シェスカを弄び、辱めた男への怒りと、そこまでして追い求めた作品が破壊されても貫く無感情への戸惑いがアゥダーリーの胃を焼いている。
「……話には聞いておりましたが、理解できない。貴様は、何を」
「アゥダーリー、抑えて。殺すわけにはいかないから」
イウリィの制止で、アゥダーリーは今すぐにでも動かしそうになっていた殺意を飲み込む。
イウリィは憎悪と恐怖を受け入れて、正面から教皇を見据えた。目論見は潰え、捕らわれても何一つ変わらない男の思想はついぞ理解できない。それでも知る必要があるのだと、尋ねる。
「何が、したかったんですか。何も感じないなら、自分が腐ったときに諦めればよかったのに」
「そうだな。私もそう考えている。求められないなら、私も動かなかっただろう」
あっさりと返ってきた肯定に、全員が言葉を失った。教皇は独白とも伝言ともつかない調子で、ただ一つ焼きついた情景を口にした。
「私の核になった人間が何を考えていたのかは知らない。だが、美しき万華鏡だけは腐った視界にもこびりついている。周囲の者は天使を求めていた。私は担ぎ上げられた。天使を作るのなら、次こそ腐敗せず、あの輝きを永久に残すべきだ。だから完成せずとも腐らないなら、それで構わない」
教皇の視線だけが動く。虚空を通して、今は消え去った異形を眺めていた。
まず動いたのはアンナリーゼだった。イウリィの身体に触れ、アゥダーリーを見ながら首を横に振って、これ以上この存在に関わる意味はないと促す。
「拙たちまで耳が腐る。あちらに戻ろう」
「……はい。行きましょう、アゥダーリー」
「ええ。──見事でございました、イウリィ様」
◆
異形が崩れたことを理解して、ナデシコはすぐさま地脈防壁を停止させた。それが限界。大きく呼吸を落としながらふらりと身体を崩して、ネオンに支えられる。
「ネオン。……なんで泣いてるのよ」
「っ、う、だって、だって……!」
ネオンはまともに会話もできないほどに、嗚咽と涙をこぼしていた。ナデシコはぼうっとする頭でネオンの泣き顔を見つめて、指先で涙を拭ってやる。
「あなたが壊れそうになってるところは散々見たけどさ。泣いてるところを見たのは初めてね」
「え?」
ネオン自身も指摘されて初めて気付いたらしい。イウリィとアンナリーゼを見つけたときと、今と。それ以前に泣いた記憶が残っていないことに思い至り、そんなことはどうでもいいと切り捨ててまたナデシコに縋った。
「ぅ、ああ、あ、うう……ナデシコまで私のせいで、私が弱いからいなくなっちゃうと思って……いやだ、もういやだ……!」
「あたしまで……?」
ネオンはほとんど何も考えずに、湧き上がる恐怖をそのまま言葉にしているのだろう。ナデシコは気力を振り絞って自分を治癒する傍らで、今のネオンの言葉に引っかかったいつかの記憶を探した。
ぐしぐしと、ネオンは泣き続けている。ナデシコは支えられながら、気怠い身体をネオンに押し付けて体温を与えていた。
「ああ……思い出した。そういえばあなた、あたしが一人でドラキュリア派と話をしにいくってなったときも怖がってたわね」
「う……? そうだったっけ……」
いなくならないで、と怯えていた姿を思い出す。
ようやく腑に落ちた。幼いネオンを決定的に壊したのは、アンナリーゼの失踪だったのだろう。自分だけの恐怖には耐えられても、自分のせいで姉がいなくなったと思い込んで、壊れた。クエリが先王をもっと早く殺すべきだったと、取り返しのつかない事態を招いてしまったと、今も後悔し続けているのも納得できた。
少しずつ身体が楽になってくる。ナデシコはまだぼんやりとした思考のまま、普段なら絶対に言わない本音を口にしていた。
「ええ、耐えられないって言ってた。でも、あたしがいなくたってもう平気でしょ? イウリィもリズ姉さんも帰ってきたんだから」
「……え?」
「姉君も姉さん方もいるのよ。あたしがいてもいなくても、何も変わらないわ」
「──ナデシコ。なに、言ってるの?」
「何って、本当のこと? あたしは今まで全部の期待を裏切ってきた役立たずなんだから。あなたは立ち直ったんだし、もう求められてたことは終わりよ」
「ナデシコ」
「まあそりゃ、ネオンが置いてくれるなら、あたしも隣にいたいけど──」
ナデシコが言い終える前に、痛いほどの力で抱きしめられた。ナデシコが何が起きているのか把握する前に、ネオンは深く息を吸って、涙声で怒りをぶつける。
「っ──ばか、ナデシコのバカぁああ!」
「ぐ……!?」
内容よりもまず声量が痛い。鼓膜を痛めるほどの声量で叫びながら、ネオンは嗚咽をこぼしてナデシコの肩に顔を埋めた。
「どうして、どうしてそんなこと言うの!? 私はもう、ナデシコがいないと生きられないのに!」
「……なんで?」
「なんでじゃない! 私がそう思ってるからそうなの!」
ネオンは泣きじゃくりながらナデシコにすがり、あなたが必要なのだと訴える。
普段の怜悧さも、戦場の冷徹さもどこかに消えた幼い声は、ネオンが二つ年下の少女だったことをナデシコに思い出させるには十分だった。
「私だけじゃない、イウリィもナデシコがいなくなったら絶対に泣く! 姉上も、上姉さんも下姉さんもナデシコを手放せないし、リズ姉もナデシコと話していると楽しそうだった!」
「イウリィとリズ姉さんはともかく、姉君たちにはまた無茶振りされそうで怖いわね……」
「無茶振りされるくらい信頼されてるの! わかった!?」
「……うん。ネオンがそこまで言うなら、信じとく」
ぐず、とネオンは涙を拭ってまた溢れさせる。何よりも大切な相手はこんなことを考えていたのかと、自分はナデシコの心も知らずに甘えていたのかと、恐怖と怒りがネオンの感情を決壊させていた。
ネオンが何も言えずに泣いていると、ナデシコが背中をさすり始めた。また気を遣わせてしまったことが情けなくて、涙が抑えられなくなる。ネオンは喉をしゃくりあげて、不意にナデシコの右腕にガラスの鱗が生えて、自分の泣き顔を映していることに気が付いた。
「……ナデシコ。右腕、どうしたの?」
「腕? ──あれ、鱗が」
玻璃の反射光がナデシコを彩っていた。今まで首筋にしかなかったのに、と首を傾げていると、人型になったエンラがナデシコの傍らに膝をついて、柔らかく右腕に触れていた。
「ナデシコ。本来なら、竜は人型にどれだけ痕跡を残すか制御できるんだ。だから僕は普段、完全な人型を作っている。そっちの方が人の中に混ざるには楽だからね」
「……そうだったの?」
「ああ。君に痕跡が少ないのも、竜になれないのもその影響だ。君は小さな頃から賢すぎて、竜の力を怖がってしまったんだよ。だからこの右腕はナデシコが一つ、恐れを受け入れた証だ。──強い子だよ、本当に」
「お父さん……」
自分が知らない恐怖を告げられて、父が離れていてもずっと見ていてくれていたのだという実感が湧き上がる。
エンラはナデシコと、抱きしめながらぐずるネオンの頭を一度ずつ撫でて、いつも通りの静かな声で告げた。
「すまない、ナデシコ。ずっと君を傷つけていた。今さら僕が何を言っても、何をしても、君を傷つけるだけだと逃げ続けていた。僕にとっては君が娘でいてくれるだけで十分で、それ以外は何もいらないのに、言えなかった。──オドゥにもひどく怒られたよ。どうしてそれを伝えないんだと」
「……師匠が」
「ああ。君がシュトラルに行ってからは毎日のように襲撃されていたし、命も半ば本気で狙われていたね。僕が君を傷つけたから。……ネオンが言った通りだ。僕もオドゥも、君が元気でいてくれる以外には何も望まない。ただ、ナデシコが大切な人たちのそばにいて、安らかであってくれればいい」
普段は口数が少ない父が、必死に言葉を告げている。生まれてからの十九年、常にすれ違って本心に怯えながらも、慕う気持ちは消えなかった父の言葉が、ナデシコの感情に届いていく。
ナデシコの口元が震えて、視界がかすかに潤み、滲んでいく。けれど生来の意地っ張りが涙を見せることを認められなくて、どうにかこぼさず飲み込んだ。
──今なら、ずっと聞きたかったことも聞ける。ナデシコはネオンをあやすフリをしながら、体温と重みにすがってエンラに尋ねた。
「お父さん。どうしてあたしとネオンを結婚させたの? ネオンが女の子だって、もちろん知ってたでしょ?」
「ああ、クエリからはすべて聞いていた。……表向きの理由は全部建前だよ。ナデシコならネオンを掬い上げてくれるかもしれないからと、願われた。僕もネオンの話を聞いて、この子ならナデシコの強さを教えてくれるのではないかと思って、賭けた」
穏やかにエンラは言う。自分とクエリの賭けはすべて成功したと確信しながら、柔らかくナデシコとネオンを見守っていた。
ナデシコはじっとエンラの顔を見つめてから、ネオンに問いかける。
「ネオン。あたし、強かった?」
「うん……! 強かった、綺麗だった。ナデシコは、誰よりも……!」
ネオンはまた嗚咽だけをこぼし始める。可愛い子、とナデシコはネオンを撫でて、エンラに向けて微笑んだ。
「お父さん、大正解」




