静寂の玻璃竜
ナデシコの気付きは、異形が人魚の歌を発した瞬間だった。
純白の異形は、封印された悪魔の肉と王冠が溶かされ、混ざられた果てに作られたもの。思考では理解していたその事実を、実感で確信した。
「――違う。駄目。あたしなんかが、あそこには」
自分が独り言をこぼしていることも自覚できない。衝撃が大きすぎて思考を制御できていない。
どうしてネオンやエンラたちがいくら殺そうが死なないのか、理解できてしまった。ネオンが告げた「腐っていないのなら殺せる」という直感が正しいことを理屈で実感してしまった。今この場で、自分だけがその原因を解体できると、悟ってしまった。
行ってはいけない。迷惑になるだけだ。竜になれない竜が前に出ても、意味はない。
理性は諫めているのに身体だけが動き出す。ゆっくりとした歩幅で、オドゥを眺めているうちにいつの間にか癖になっていた気配を殺す歩き方で、戦場に向かう。
行ってはいけない。けれど。殺せる。自分が行けば、家族を助けられる。
異形が指先から炎を垂らす。実感で掴んだ理屈が正しいという確信が、また一つ積み上がる。
「ナデシコ――ナデシコ、下がるんだ! ナデシコ!」
エンラが叫ぶ。焦りを剥き出しにして、娘の危機を拒絶する。ナデシコの立ち位置に恐怖しても異形を押し留めるためにその場から動けず、止められない。ナデシコはじっと異形を見つめて、誰にも聞こえない声量で「ああ」と呟いた。
確信が絶対の事実に変わる。あたしがいれば、この異形を殺せるのだと。
口元が吊り上がって、歓喜を抑えられない。首筋の鱗に触れて、自分が竜帝の娘であることを思い出す。竜になれない弱さを補うためにと求め、いつしか生の根幹に収まっていた魔術への傾倒が無駄ではなかったのだと、これまでの生き方が無駄ではなかったのだと、やっと受け入れられた。
ネオンが恐怖と焦りで自分を呼ぶ声も聞こえていた。でも、今だけは聞いてあげない。やっと役に立てる。やっと彼女の隣に立てる。だから、聞かない。
異形が歌う。ナデシコは守りを緩めると、衝撃の余波に自らを晒し、内臓の痛みに笑った。
「……そう、そういうこと。やっぱり、そうだ。あたしなら、こいつを解体できる」
異形はエンラだけを見ている。その軽視がお前を殺すのだと、ナデシコは笑う。地面に触れて、異形からこぼれるエーテルを辿り、その命に触れる。土地はもう死んでいるから異形の中身はすぐに掴めた。
溶かされ、混ぜられ、絡まり合った数多の命と王冠の力。ナデシコはその力の一つに触れて――接続を緩め、繋がりを希薄にさせた。
ネオンはナデシコの元へ向かうために異形を裂き、また致命傷を与える。これまでと何も変わらない作業だったのに、ネオンの表情は今度こそ、想定していなかった驚愕で固まった。
「……変わった。手応えが、違う」
「何だと――?」
ネオンの喉は二つの言葉を紡いでいた。これまでエンラの攻撃でしか揺らがなかった異形の体幹が、ネオンの一撃で大きく揺れる。
ネオンは異形を殺しながら、呆然と地上のナデシコを見つめる。ナデシコは笑いながら、ネオンに告げた。
「殺して、ネオン、お父さん。あたしがこいつを殺せるようにしてあげる」
理屈を説明している暇はない。だから事実を告げるだけ。
この異形がどれだけ殺されようと死なないのは、混ぜられたから容易に死ねなくなっているだけ。ネオンがハルピュイアに告げたまさにその通りの理由で、王冠を中核にした生命力が循環しているだけだ。
だからナデシコはその繋がりを一つずつ解いていく。かき混ぜられた王冠を探って、一つの形を捉えた瞬間に引き剥がして、接続を緩めていく。存在を削られていくのだから、生命の循環が崩れるのも当然の現象だ。
異形が歌ってくれたおかげで、混ぜられたなら剥がせばいいだけだと直感できた。
ナデシコは攻撃の余波を自ら受けて血を流しながら、攻撃の質を手がかりに異形に混ざった悪魔を探す。いつもやっていることと変わらない。違和感を手がかりにして本質を探す。いいやむしろ、クエリの無茶ぶりに比べれば、明確な現象があるだけ手遊びにも等しい。
ネオンは泣きそうな顔をしながら、ナデシコを見つめていた。エンラは呆然と、白銀の髪を赤く染めていく娘の姿に言葉を失っている。
誰よりも強いくせに弱い人たち。歓喜ではなく柔らかな面白みで、ナデシコはまた笑う。
「ネオン。あなたが弱っちかったときに誰が支えてあげたと思ってるの? ほら、いいから。あなたもあたしを信じなさい」
暴風がナデシコの皮膚を裂く。ナデシコは暴風の源を探り、また剥がす。ネオンはナデシコの流血を拒むように口を一文字に閉ざして、唇から血を滲ませるほどに噛みしめている。
ネオンは言葉を失い、声を出せなくなっていた。けれどネオンの喉は、彼女の意思ではない叱咤を叫ぶ。
「ネオン、竜帝、従え! 竜姫は誰より弱かろうが――あの強さは今のお前らなんぞ足下にも及ばん!」
「はっ、フレアのくせに良いこと言うじゃない!」
ナデシコは攻撃を受け、血を流す。力の根源を身体で理解して、表出するそばから剥がしていく。
ネオンもエンラも、手応えが確実に変わっていくのを感じていた。停滞していた戦場が破壊されて、ナデシコがいれば殺しきれると理解した。ネオンは震える声を飲み込んで、異形を殺すことだけに意識を向ける。
「――お願い、ナデシコ!」
「ええ、任せときなさい!」
異形も、自分がナデシコに解体されているのだと理解していた。敵意と殺意が足下のナデシコに向かい、エンラによって即座に叩き潰されて動きを阻まれる。
「ナデシコに、これ以上手を出すな……!」
異形の攻撃はエンラがすべて受ける。ナデシコはその余波を浴びるだけ。エンラからすれば直撃しようと多少の痛みで終わるものでも、ナデシコは余波を受けるだけで着実に痛みと傷が蓄積して、削れていく。
ナデシコは父の姿と朧気になっていく視界に、自分の弱さを実感する。それでもかつての劣等感は、もうどこにも存在していなかった。竜として最弱のままでも、強者たちを支えるだけの存在になれたのだと実感できたから、もう竜になれない自分を嫌う必要はない。
ナデシコが全身から血を流す中、右腕の傷がガラスの鱗に覆われていた。ナデシコはそれに気付かないまま、負担も痛みも切り捨てて解体を続ける。
「泣くのは後にしろ、軟弱者が!」
「うるさい! ちゃんと殺してるんだからいいでしょ!」
ネオンは異形の生命力が削れていくことを実感しながら戦斧を振るう。エダもこれまで異形を殺すことに全霊を注いでいたが、フレアの叱咤が聞こえていたのか。今はナデシコに致命傷が届かないよう、異形を牽制して守りに入っていた。
異形の瞳がナデシコに注がれる。敵意と殺意と恐怖が、この場で最も弱く、ただ一人己を殺せない者に向けられていた。
その視線を一身に浴びるナデシコは、少しだけ視界を閉ざした。冒涜された王冠と命の気配だけを感じ、呟く。
「……せめて、腐る前に死んでおきなさい」
ネオンが砕き、エンラが抉る。
そうしてようやく――幾千の死を積み重ねた果てに異形は墜ちて、執着の檻から解放された。




