冷え切った殺意と竜姫の乱入
異形の動きが変わった。
防壁に囚われ、自由を奪われたからか。あるいは形成から時間が経って、肉と王冠の混合物として安定してきたのか。
異形はエンラめがけて音も呼吸もない咆哮を放つ。咆哮はエンラにたたらを踏ませ、周囲に嵐の暴風が吹き荒れた。
「……人魚の歌か。気分が悪い」
歌を避ける術はなく、衝撃も大きいが、動きを阻むほどではない。暴風があろうとエンラの障害にはならない。腕を払い、異形の腹部を抉る。同時にネオンが喉を貫き、エンラの隣に降り立った。
声帯を砕かれ、嵐が止む。ネオンは確信してエンラに告げた。
「大抵の魔物の狩り方は知っています。あれが何かを仕掛けてくるなら私が止めるから、エンラさんは攻撃だけを」
「任せた。すべて委ねよう」
エンラは淡々と頷き、異形を切り裂く。ネオンの思考は無感情に平時の温度を保ち、手応えだけを検分していた。
もう三桁回数は致命傷を与えている。地下で一瞥した扉の数からしても、溶かされた命よりも多く殺しているのは間違いない。にもかかわらず、手応えに一切の変化がなかった。こうなると希望的観測はすべて捨てないといけない。
まだ腐っていない。だから殺せる。ネオンは確信しているが、いつ殺し切れるのかまるで読めない。千回ではまず足りない。万を殺しても、果たして止まるのか。
「フレア、君らって一週間戦い続けられる?」
「生物をやめようとするな。エダなら三日はいけるだろうが」
「一週間は流石に冗談だって。エダでも三日なら、やっぱり今の出力で殺し続ける方がいいか」
意識でやりとりするのも煩わしかったから、フレアにも声を使わせていた。フレアもいつになく積極的に戦局を見定めて、意見をネオンに伝えていた。ネオンは自分の声を聞きながら、流れ作業のように異形の攻撃を処理していく。
「人のふりをした腐肉が死なないのは腐敗を伝染させているからだろう。腐る何かがある限り、概念が消えないだけだ。腐る前なら殺せるのは間違いない」
「ああ。それにエンラさんの王冠は正常だ。天使の末路と末裔の差もあるだろうけれど、やっぱりあれは腐ったせいで何もかもが狂っている」
悪魔の肉体だけでは意思が砕け、最初の志を否定した。
ドラゴンは乞い願われるような一方的な救済を否定した。
教皇の言葉とドラキュリア派の記憶は符号している。ナデシコやエンラも、自らの種族が天使に端を発することをまったく知らなかった。ならばきっとドラゴンは教皇のようなものには堕ちず、まっとうな生命と同じように滅びたのではないか。
直感を繋げていけば、目の前の異形を殺せる証拠はいくらでも見つかる。だから感情を動かす必要はない。死なない程度に死力を尽くせば、武力に訴えていい問題は解決できるのだから。
異形の指先から炎が滴り落ちて、エンラを焼こうとする。ネオンはすぐさま近くにいたハルピュイアに飛び乗って、文句を言われながらも異形の腕を肩口ごと斬り落とした。
「それにしても──うん。君、私に殺されて本当に幸運だったね。封印も諦めさせるくらいに殺し尽くした甲斐があったってものだよ」
「現実を改竄するな。俺が簡単には殺されてやらなかったからあそこまでの損傷になっただけだ」
「あれ、そうだったっけ? 君の気管を裂いてから抉り出したときにはもうほとんど死に体だった記憶があるんだけど」
「はっ、また記憶を失ったのか? その後にお前の両腕を叩き折ってやっただろうが」
「……あー、そういえばそんなこともあったっけ。でもそのせいで油断して、眼球まで潰されてたよねえ」
フレアと戦い終えた後の記憶は残っていなくても、殺し合う最中の情景と快楽は二年が経っても未だ鮮明に思い出せる。
人生で最も楽しかった命の奪い合い。今の戦場とはまったく対極的な、鮮烈な生の実感。ネオンにとっては理由を思い出せない恐怖と存在しない視線に付き纏われていたころ、忘却した記憶の存在すら忘れて生きていられた唯一の時間が狩り場での殺し合いだった。
フレアは不満を露わにしながらも、確かにネオンと遭遇して、そのまま殺されたことは幸運だったと嘆息で同意を告げる。一対一で死ぬまで殺し合いに興じ、肉体を溶かされることなく、王冠を天導教に奪われることもなかったのだから。
「さて──惰性で殺すしかないけれど、惰性で殺しているだけだと持久戦で負けかねないと」
「だからといってできることもないだろう。うだうだ言わずに殺し続けろ」
「はいはい、まったく。口だけうるさいんだから」
「誰が王冠を制御してやってると思ってるんだ!」
異形の攻撃がひとたび直撃すれば、いくらネオンの頑丈さでも継戦不能に追い込まれるだろう。けれどネオンに緊張はなく、軽口と雑談を交わしながら戦斧を振るう。
目の前にいるこれは獲物ですらない。存在を許す理由がないから殺している。ただそれだけ。狩る価値もない相手に傷をつけられるとは微塵も思っていないからこその余裕だった。
けれど、途端にネオンの目が見開かれる。手つきは滑らかなまま、淀みなく異形へ致命傷を与え続けながら、意識のすべてが固定された。
白銀の玻璃竜。己を支え続けてくれたガラスの竜が、防壁の中にいた。その足取りはゆっくりと、どこか戸惑うように、荒れ果てた地面を踏んでいる。
「──ナデシコ」
ネオンの思考は一挙に混乱へ落とされる。
どうして彼女が最前線にやってきている。彼女が魔術師として最高位であることは十分知っている。けれど、死傷のみが交わされるこの場所に耐えられるはずがない。
「っ……そこを、どけ!」
戦端が開かれて、初めて声を張り上げた。
もちろんエンラもナデシコの存在には気付いている。けれどナデシコに異形の攻撃が落ちないよう守ることを優先するしかなくて、気配を殺した歩みを制止できない。
どうして。早く。守らないと。ネオンの思考は焦りに満ちて、身体の反射だけで異形を殺し続けている。
ナデシコが足を止めた。異形を目の前にしたその瞬間、困惑で茫漠としていた表情が一変した。
口元を吊り上げる。人より鋭い犬歯を見せて笑う。竜の誇りを呼び覚ますように首筋の鱗に触れる。いつも強気な薄紫の瞳が楽しげに形を歪ませて、自分が役に立てることへの喜びと力量への自負に染まっていく。
「……はっ。そう、そういうこと」
異形が歌う。ナデシコは笑いながら衝撃の余波に自らを晒して、身体を痛みに折って、さらに確信を深めた。
──あたしがいれば、あたしの力があれば、こいつを殺し切れるのだと。
「あたしなら、こいつを解体できる」




