世界を殺す知性
「まったく、恐ろしい子だ──」
エンラは呟き、ネオンを見やる。人でありながらハルピュイアを統率してしまった義理の娘に向ける声音は、呆れと安堵が入り乱れるもの。彼女にナデシコを託したのはやはり正しかったと確信して、異形へ視線を戻した。
純白の異形はネオンに殺され、ハルピュイアに殺され、それでも血液一つこぼさない。新雪のような、生物にはありえない純白がエンラの本能に嫌悪を誘う。
エンラは乱雑に、爪を叩きつけた。どれほど殺されようと揺らがなかった巨体が姿勢を崩し、顔から胴にかけてを裂かれる。
「────」
異形の目がエンラに向いた。声を出す機能はないようで、吐息一つこぼれない。宝玉のように透き通った瞳はエンラを脅威と見做し、敵意を向けていた。
声をかける義理はない。エンラの口数はもともと多くないし、戦いに高揚するたちでもない。戦に興味もない。生まれ持った力だけで煩わしいすべてを屠り続けて、結局誰もエンラに勝てなかったから、世界最大戦力にふさわしいと竜帝に指名されただけ。
竜帝としては、目の前の異形に興味はない。王冠を蹂躙されたおぞましさはあるが、ならば叩き潰せばいいだけ。
けれど父としては、娘たちを襲おうとするそれを許せない。見ているだけで忌々しい。怒りすら、湧いてくる。
「動けると、思い上がるな」
異形が腕を持ち上げる。すぐさま切り裂き、竜の唸りと共に告げる。
「お前はただ、殲滅されていればいい。僕の娘に手を出そうとしているんだ。肉片一つに至るまで、すべて灰になる覚悟を決めろ」
◆
「お父さん」
ナデシコは小さく、無意識に父を呼んでいた。自分のために父が怒っていることを理解して、幼い頃からのすれ違いが招いていたエンラの本心への恐怖が少しずつ解けていく。
オドゥはナデシコの呟きへ大仰にため息をつき、ぶっきらぼうに告げた。
「あいつはお前を見限ってない。不器用すぎてお前と向き合えなかったボケ野郎でも、それだけは事実だ」
「……うん」
頷く。ナデシコはほんの少しだけ戦場から意識を離すと、エンラとオドゥの娘として自分の感情を認め、自分が父にとっても不要になったのかもしれないという思い込みを捨てた。
ナデシコはゆっくり息を吐いた。吐息の音で意識をすべて切り替える。娘ではなく魔術師として、戦場を見つめる。
「ヴァーチェ、姉君たちは!?」
「つ、繋がってますわ!」
「こっち来て! アゥダーリー、絶対にイウリィを守って! 狙われるのはイウリィだけだから!」
アゥダーリーはしかと頷く。アンナリーゼもヴァーチェを守りつつ、意識の主体をイウリィの守護に向けていた。ナデシコはヴァーチェがやってくると、前置きなしで辿り着いた推論を伝える。
「天導教は絶対に引かない。ここですべて潰さない限り、イウリィを狙い続ける。けれどここで潰し切れば、向こうも活動を終えるはず」
『理由を』
「イウリィの出自。教皇が天使の末路なら、イウリィの血は半人魚なんて生やさしいものじゃなくなる。海の王を天使が穢して、それでもイウリィは腐敗に侵されず、王冠を預かった。ここまで特異な条件に次が出てくる可能性は存在しないと思っていい。だから天導教はここにすべてを賭けるはず」
クエリと双子が相手なら結論を伝えるだけで十分だと判断し、情報を畳み掛ける。今ばかりはイウリィとアゥダーリーを気遣う余裕もなかった。
ナデシコの推論に言葉を返したのは双子だった。魔術師としての知識の分、クエリよりも早くに構造を掴んだらしい。すぐさま状況分析がやってくる。
『ネオンと、エンラ殿と、ハルピュイア。ええ、物理的な戦力は十分以上。天導教を再起不能に追い込むことは可能と見たわ。ならばあとは教皇の捕縛と、組織の知識を奪う必要がありそうね』
『……知識の奪取と、教皇の捕縛。リズ、可能?』
「拙もここがどのように知識を共有しているかは把握できていませんが、教皇を捕らえるだけならおそらく。あれは世界を見ていない。天導教が悪魔の封印を担えなくなれば、あの男は活動を停止するでしょう」
アンナリーゼは十年以上、教皇を見続けてきた所感から断言した。生命を止める方法はまるでわからないが、能動的に動く存在でないことは確信している。天導教という悪魔と王冠を集めるシステムが崩壊すれば、次を目指すことはないだろうと。
なら、とオドゥは頷いた。隠密としてかつて情報戦を生業にしていた過去から、自ら役割を請け負う。
「とっくに滅茶苦茶な有様だが、資料を探す価値はあるだろう。ドラキュリア、お前も手伝え。ここの資料を見るならお前が適任だ」
「うぅ、わかりましたわ……。鳥よりは遥かにマシですし……」
ヴァーチェはがくりと肩を落としながらも、素直にオドゥの隣にやってくる。
前触れなくアンナリーゼが大剣を振るい、アゥダーリーが尾を叩きつけ、オドゥが暗器を投げたのはその瞬間だった。
「ひぇあっ!?」
「っ──」
ヴァーチェの悲鳴と、イウリィが息を呑む音が同時に発される。三者の攻撃は地面から染み出した白い手を壊し、塵に変えていた。アゥダーリーはイウリィを求め、伸ばされた腕に生えていた鱗を思い出して、奥歯を噛み締める。
「どこまでも、辱めを……!」
「……まずいな。エンラと王子様が止めても、阻めない」
オドゥの声に焦りが滲む。ナデシコは純白の異形を見据えながら、腕が染み出してきた光景を脳内で反復し──決断した。
「姉君、姉さん方。あたしも盛大にやらかすから、後のことはお願い」
『……やらかす?』
クエリが素朴に反復した。ナデシコは答えるより先に地面に膝をついて、手を触れて、魔術を編み始める。魔術師の最高位、無詠唱者であるナデシコをして、詠唱が必要なほどの仕掛けを作り出す。
「『十の基点。二十の接続。重ね合わせて三百の連結点』──何はともかく、あれの行動範囲を制限しないと話にならない。だから壁を作って、閉じ込める」
あまりにも膨大な仕込みが必要とはいえ、理論はすでに確立している。ナデシコは会話の片手間に、魔術を象る。
ナデシコが当然のように語る技術の異常性に真っ先に勘づいたのはやはり、シュトラルの魔術研究を束ねるウルミアとミラリスだった。
『……ナデシコ、まさかとは思うのだけど。壁って地脈防壁? 地脈防壁を、一人で?』
「ええ。でも、あたしは関与しない。流れを作るだけ。地脈を歪めて、指向性の枠を作って、勝手に防壁を作らせる」
『っ──』
双子はナデシコの主張を理解して、言葉を失う。
地脈のエーテルを利用して作り出す絶対的な守り。シュトラル王都の魔術師たちの総力を用いても一時間保てば上等なほどの、儀式と形容すべきほどの大規模な術式。そしてナデシコが実行する手法は、すべての常識を覆すほどの理外。
「『循環して、収奪して、枯れ果てて、満ちる』──この前、エダとアゥダーリーが攻めてきたときに地脈防壁を初めて見て、思ったの。効率が悪いなって」
『こ、効率……?』
双子の声は引き攣っていた。ナデシコが「盛大にやらかす」とすら明言した意味を理解して、どうやって事後を誤魔化そうかと全速で検討し始める。
魔術を補助にしか使わないオドゥとアンナリーゼは双子ほどの確信には至っていなかったが、ナデシコの思考が常識と秩序を壊してしまったことは悟り始めていた。
「せっかく地脈を利用しているのに、人の維持が必須なんておかしいと思って。で、師匠がドラキュリア派と渡りをつけてくるまで暇だったから、地脈だけで完結させられないか試してたの。……まあ、うん。その、吸い上げる速度と濃度が想定以上で、副作用があんまりにもひどすぎたから永久に封印するつもりだったんだけど、手段を選んでる場合じゃないし」
『……リズ。あなたに渡している鳥を弄って映像を残せるようにして。ただし音声は記録しないように。ええ、こうなればすべて天導教に押し付けましょう。世界が死んだのは天使のせいよ。事実は勝者が改竄すれば真実になるわ、ふふふ』
双子の声は楽しげながら、やけっぱちに満ちていた。アンナリーゼはウルミアとミラリスの反応からおおよそを察して、指示の通りに改造を進めながらも、恐る恐ると問いかける。
「上姉さん、下姉さん。世界が死ぬとは?」
『ふふふ。きっとそこの一帯、土地が枯れるわ。百年程度じゃ回復もしないでしょうね。ああ、哀れな天導教。考えなしに天使なんてものを作ってしまったから、自分たちの土地が草木一本生えない不毛の大地に変わるのよ。可哀想だけど自業自得というものね。だって天使の存在が土地を殺すことも想定できていなかったんだもの』
双子は早々と事実改竄を始めながら、ナデシコの魔術の代償を言葉にする。
オドゥは俯き、顔を覆いながら背中を震わせていた。きょとんとしていたイウリィは、脳裏によぎった景色にはっと顔を強張らせる。
「ま、まさか、ナデシコさまが出発してから、ナデシコさまのお部屋のそばの芝生がいきなり枯れたのって──」
「……ごめん。やっぱりあたしが整えてないとそうなっちゃうか」
「うわぁああああん! ひどい、ひどいですナデシコさま! 頑張って綺麗にしてたのにぃ!」
イウリィはぷんぷんと、侍女としての怒りを全開にする。一人で離宮を維持する傍らで、手間暇かけて手入れをしていた大事な庭を枯らした犯人が目の前にいたことにむくれて嘆く。ナデシコは作業を進めながらも、片手で謝る仕草を作り、頭を下げていた。
「ごめん! 本当にごめん! あのときはすぐに止めたし、あたしが手入れしてれば一年くらいで戻るはずだから!」
「うぅ……お庭、ナデシコさまも一緒に直してくれるなら許してあげます」
「うん、直す。絶対に直す。なんなら殺す前より元気にできないか実験する」
「迂闊に実験すんなバカ娘!」
ようやく事態を飲み込んだオドゥがとうとう怒鳴る。邪魔をしないようにと攻撃こそ仕掛けなかったが、語勢は普段の喧嘩とは比較にもならない。
たった数日の余暇で、些細な好奇心から世界を殺してしまう技術を作っていたナデシコへの説教は本気だった。師匠としても育て親としても、この娘を野放しにするのはまずいと直感して怒鳴りつける。
「てめえ、あそこのバカ鳥どもよりよっぽど危険なことやらかしてるんじゃねえか! 絶対に公的な研究に関わるな! 考察も残すな! いつものメモはその日のうちにお前が焼却処分しろ!」
「わ、わかってるわよ! だからこれも本当はもう二度と使うつもりなかったんだし!」
「んなこと言いながらちゃっかり理論確立してんじゃねえよ! くそ、どうしてちびに基礎を教えただけでこんなことに……!」
ナデシコの才能を誇ればいいのか、恐れればいいのか。オドゥの情緒はぐちゃぐちゃにかき乱されて、過去の記憶が脳内に溢れ出す。
ナデシコは正論そのものの説教にぐぐぐ、と歯噛みしながらも地脈を改竄して、防壁を作るための機構に作り替えていく。術式の成立と共に地面を叩き、異形を戒める檻が完成した。




