玉座なき支配者
意識を閉ざし、美貌の生き人形と化したシェスカの身体が溶けた。溶けた肉は地下空間のあちこちから広がる肉の液体と混ざり合い、やがて純白の巨大な異形を形成した。
その過程を見つめていた教皇に、純白の手が差し出される。
この世の生物には存在しない純白と、光を受けて輝く鱗。艶かしく細やかな指先。教皇が返したのは独白ではなく、対話だった。
「やめておけ。確かに核にはなってやれるが、お前まで腐ってしまう。私では保てなかった穢れなき美を、見せてほしい」
教皇が告げれば、手は引いた。淡々とした声で、教皇は異形へ話しかける。
「悪魔の肉体だけでは意思が砕け、初めの志を否定した。人間を核にすれば、耐えられずに腐り落ちた。だから最も美しき悪魔に私の血を混ぜ、子供を産ませた。私の腐敗に侵されず、シェスカの美を継いだ子供だ。あれならば、お前を完成させるだろう」
教皇の言葉に異形は頷き、地上を目指す。その直後に橙色の戦斧が投げつけられて、教皇の肉体が爆ぜるように壊された。
ネオンは静まり返った地下を歩き、教皇の死骸に近付きながら呟いた。
「……お母上を壊すと、何が狂うかわからなかった。ああ、そうだね。私も同意したし、たとえ一人でも泳がせていた。だけど、気分が悪い」
肉片を見下ろす。高揚はどこにもない。殺意もない。ネオンの瞳に映っているのは、嫌悪と拒絶だけ。
「イウリィを苦しませて、泣かせたんだ。お前たちが何かを残せるなんて思わないことだね」
「そうだな。天導教はここで終わる。あれを完成させられる条件が揃うのはこの場だけだ。未来に逃げたところで、それはただ醜さを撒き散らすだけの無様に過ぎない」
背後から、すぐに教皇の声がやってきた。教皇の対話はネオンにも──暁のフレアと共存し、王冠の守護を託された少女にも向けられていた。
教皇はふぅと、ため息を落とす。悪魔を混ぜた異形とネオンだけは彼の世界にも存在するからこそ、情感が見えるようになっていた。
「状態は把握したが、経緯がまるで想像できない。人間が王冠を持つような事象も、個別の精神が対等に共存するような事態も、初めて見た。私なんぞよりもよほど異形だな、お前たちは」
「私とフレアだから成立している、それで十分だ。……一つ、教えろ」
ネオンの声に温度はない。威圧や警句で冷え切るのとはまったく違う。目の前のものが存在する意味を認めていないから、何も反応していないだけ。
ネオンは戦斧を握りながらかつての出会いを思い出して、肉塊に吐き捨てる。
「どうしてイウリィに私を襲うように命じた。あの子を手放さなければ、お前の目的は叶っただろうに」
「……ああ、お前がシュトラルの王子だったのか」
ぽつりと呟いた。だからこの娘はイウリィを連れ戻しに来たのかと、今さら納得するように。
教皇にネオンへの興味はない。けれど彼にとってネオンの異質は世界に存在するものだから、質問に答える。
「どちらでもよかった。イウリィがお前に殺されるのなら、幼い美貌を閉じ込めて核にできた。イウリィがお前に保護されるのなら、天導教では開かない美を核にできると考えた。だから、どちらでもよかった」
教皇が言い終えてすぐ、また肉体が破壊された。ネオンは嫌悪と怒りで肉を潰して、地上を見上げる。
イウリィを思うと、あまりの憤りで脳が熱かった。フレアも教皇を唾棄して、ネオンと同じように苛立っている。二つの激情が荒れ狂うから、こうなるとネオンの平静はなかなか戻ってこない。
熱に浮かされて、動けなくなっているネオンを冷やしたのはエダの呼びかけだった。
「ここで耐えようとするくらいなら噛み殺しにいけ。そちらの方がよほど建設的だ」
「エダ。……うん、そうだね。そうしよう」
どうせここに残り、教皇を殺し続けたところで何も解決しない。ネオンは身の毛のよだつ純白を見上げて、戦斧を握り直した。
「乗せてほしい。上から殴ってみる」
「好きにしろ」
エダの背に飛び移る。エダはすぐさま翼を広げて、上空へ向かった。
ネオンは片方の視界だけ、手のひらで隠しながら地上を見た。シェスカを中核にした異形の前に立ち、威圧するのは白銀の竜帝。ネオンからすれば義理の父の片割れである、世界最大の単独戦力。
──エンラとオドゥの前で、情けない姿は見せられない。ネオンは静かに、エダへ声をかける。
「エダ、君の名代としてハルピュイアに声をかけることを認めてほしい」
「……フレア様の言葉を覚えていないのか? 私はもう後継ではないぞ」
「白紙にされただけでしょ。君がフレアの後継だってことは何も揺らいでいない」
矛盾する主張にエダは怪訝を露わにする。ネオンは楽しそうに笑いながら、それでいて挑発するように自分の意見を伝えた。
「そりゃ、私を殺すにはまだまだまったく足りないけどさ」
「落とすぞ」
「勝手にしがみつくから大丈夫。──ほら、君と戦ったときに言ったでしょ。君の力はフレアと遜色ないって。フレアを殺したのはもう二年も前だし、あのときはナデシコが助けてくれてたから本気で暴れる必要もなかったけどさ、私を殺せる可能性があるのはきっと、エダだけだよ」
だからフレアの後継という事実は消えない。記憶を失うほどの高揚の中でフレアを「楽しい鳥」と形容して、今もハルピュイアが好きだと公言するほどに、彼らと馴染んだ狩猟本能を持つネオンは断言する。
エダはまず、楽しげながら確信のこもった指摘に口を閉ざした。大きくため息を落として、ネオンの要求を受け入れる。
「好きにしろ。皆が従うかは貴様次第だ。私は知らん」
「ありがと。じゃ、また後でね」
ネオンは迷わず飛び降りて、異形めがけて破壊を振るう。
エダは純白の腕が吹き飛ばされて、塵となり、また再生するまでを俯瞰して。一度旋回してから、ネオンに続いて異形へ迫る。
◆
大穴から純白の異形が現れ、すぐさまエンラが正面に立ち、その直後にエダの背から飛び降りたネオンが異形の腕を破壊する。
ナデシコはオドゥに守られながら、その光景をただ見ていた。
「ナデシコ、怪我は? ……おい、ナデシコ」
「あ……うん、何もない。大丈夫」
ナデシコの反応は遅く、声も弱い。直前までの考察の負担と暴いた因果への恐怖で高まっていた緊張が一気に緩み、脳が情報処理を一時的に停止していた。
長年育ててきたオドゥも初めて見る姿だった。オドゥはそのままナデシコを抱えて立ち上がり、すぐに動けるようにする。
「悪いな。お前が何か考えてるのは見てたんだが、俺とエンラくらいは離れて俯瞰しておく必要があった」
「うん、うん……。ごめん師匠、落ち着くからちょっと待ってて」
「おう」
ナデシコがオドゥに一方的に守られる体勢を受け入れている反応こそ、極度の負荷がかかっている証明だった。オドゥは何も言わず、エンラが対峙する異形へ警戒を向けながら、ナデシコの回復を待つ。
ナデシコは数度、オドゥの腕の中で深呼吸をした。エンラとネオンの姿を見て、目つきの勝気さを取り戻す。
「──ありがと、師匠。もう平気」
「ならいい。さっき、何に気付いた?」
ナデシコは自分の足で立つと、周囲を見やる。アンナリーゼがヴァーチェを背に庇い、アゥダーリーもそのすぐそばでイウリィを守っていた。イウリィの無事は確保されていると理解して、告げる。
「イウリィが狙われている根源。天導教からすれば、あの子は核の候補じゃない。核にできる唯一の存在だった」
「……なら、こうなるか。こっちの勝利条件は女王陛下が言った通りに天使の解体。敗北条件は人魚のお嬢ちゃんを奪われること。んでもって逃走は不可能」
オドゥの整理に、ナデシコは頷いて肯定を返す。オドゥは即座に、エンラとネオンへ叫んだ。
「エンラ、王子様! そいつを絶対に動かすな! 何が何でもそこに留めろ!」
「ああ、わかった。ネオンもいいね?」
「はい。ただ、動く前に少しだけ」
ネオンは戦斧を──王冠の影響で焔に染まったフレアの翼を地面に叩きつけて、音を一帯に響かせた。
轟音ではない。これまでの破壊に比べれば刺激にもならないような些細な音だ。けれどハルピュイアの視線がすべて、ネオンに集まる。ネオンの声が、すべてに届く。
「聞け。フレアが言ったように、私は君たちの王じゃない。君たちと群れるつもりもない。けれど、今だけは私に従え」
ネオンは戦斧で異形を示す。
高揚も楽しみもない、義務の殺意だけが異形に向けられる。
「あれは存在してはならない。王冠を讃えるすべての種への冒涜だ。だから殺して殺して殺して、死ぬまで殺し続けろ。あれはまだ腐っていない。溶かした悪魔の肉と王冠を混ぜられて、容易には死ねないだけだ。腐る前なら、殺せばいつか死ぬ」
根拠のない、直感だけの言葉は揺るぎない確信に満ちていた。ネオンはハルピュイアたちに向けて、あの異形こそ自分たちが殺すべき相手なのだと指し示す。
「私はあいつを殺す。だから君たちも殺せ。王冠を取り戻すならまず、冒涜を自分たちの力で否定しろ。私よりも多く殺して力を示せ。私ごときに気圧されるな。フレアの臣下だったなら、空の狩猟を私に見せつけろ!」
ネオンが動き、異形の胴体に穴を開ける。風穴が開いても異形は反応を見せず、何事もなかったかのように傷は塞がった。
あまりにもおぞましいその姿。まともな生物なら怯み、攻撃を躊躇する現象を前にして、真っ先に仕掛けたのは群青のエダ。エダが異形の肉を抉ると──ハルピュイアすべてがすぐさま動き、殺しに向かった。




