辿り着いた怖気の中身
脅迫めいたクエリの喜びを、アンナリーゼはじっと噛み締めていた。ネオンは心から嬉しそうに口元を緩ませて、姉たちのやりとりを見つめている。
ナデシコは空気を乱さないよう、音を立てずに呼吸を整えた。クエリはじきに王へ戻る。今の余裕は消えるだろう。気を緩められる最後の時間を意識して、ナデシコはごく個人的な疑問をイウリィに尋ねた。
「ねえイウリィ。あなた、もしかしてネオンがやけにハルピュイアっぽいこと知ってたの?」
「私は鳥じゃないよ!?」
ネオンの抗議は無視。ナデシコはもうネオンとフレアが同類だと認識しているから、根拠のない反論を聞いてあげるつもりはなかった。
イウリィも同じようにネオンの不満は気に留めず、ナデシコの問いかけに首を横に振った。
「いえ。私はいつもお帰りをお待ちしているだけでしたから、見たことはなかったんです。……ただ」
小さく、イウリィが疲労をこぼした。イウリィはまずアンナリーゼを見て、今も繋がっている琥珀の鳥を見て、ふぅと息を深く吸う。
そうして躊躇いながらも、今まで自分の胸の中だけに秘めてきた過去を言葉にした。
「そう、あれは二年前。ネオンさまがどうして元気に動いているのか理解できないほどの大怪我をして、とっても楽しそうに帰ってきたことがあったんです」
「……ん?」
なぜか、ネオン自身がイウリィの証言に首を傾げる。
イウリィはきゅっと拳を胸の前で握って、今こそ主人の無茶を叱ってもらうときだと決意した。
「あちこちに大火傷をして、骨もたぶんいっぱい粉砕されていて、それなのに自分の足で帰ってきて」
「ん? え? え、ちょ、ちょっと待って、イウリィ、私そんな覚えはまったく──」
すべてを察したナデシコはネオンの口を塞ぎ、ヴァーチェにも協力させて取り押さえる。イウリィはとうとうと、ネオンとフレアの交戦直後の記憶を語り始めた。
「ネオンさま、いつもは落ち着いていらっしゃるんですけど、あの日は明らかに興奮していて。すごく楽しい鳥がいたんだって、嬉しそうにお話していて。いつもなら私に狩りの詳しい方法は隠しているのに、あの時だけは大喜びしながらどうやって翼を折ったか、とか。どうやって骨を砕かれたか、とか。とっても詳しく教えてくださって。どれだけ寝かしつけても眠ってくれなくて」
アンナリーゼの顔は強張り、とうとう顔色まで悪くなっていた。イウリィは慈悲のすべてを切り捨てると、ネオンが記憶を手放すほどの高揚を目の当たりにさせられて、無茶を制止した証人として事実を口にする。
「まだ眠るときにお薬が必要な頃でしたから、私の独断でお食事に盛って追加で服用させました。それでも元気なので、生まれて初めて人を昏倒させるつもりで歌いました。それだけ手を尽くしてようやく眠ってくれたんですけれど、次の日も興奮して外に行こうとしたので同じように寝かしつけました。ネオンさま、とってもひどい大怪我だったのに、陛下や殿下方にバレたくないからってお医者さまも嫌がって、結局自力で治してしまって。──陛下。このイウリィ、処分はいくらでも、甘んじて受け入れる所存です」
イウリィは深々と頭を下げる。ナデシコはネオンを解放して、発声を許す。
ネオンはぷるぷると震えて青ざめながら、自分への慄き混じりの謝罪を言葉にした。
「────ごめんね、イウリィ……」
「もう二度と、あんなことにならないって約束してくれるなら許してあげます」
「ならない。絶対。万が一同じことになったらナデシコかリズ姉に気絶させてもらう」
「せ、拙たち頼りじゃなくて。自分でちゃんと制御できるように……」
「う、うん。もっと強くなります……」
そっちじゃない、とナデシコは言おうとして、言葉にできなかった。
ナデシコは湧き上がる怒りを吐息にこめて、どうにか制御しようとする。そのさなか、琥珀の鳥からネオンの中に引っ込んだフレアの声がした。
「はっ、ざまぁないな。俺を殺した報いだ、せいぜい怒鳴られろ。高揚すら抑えられん未熟者め」
「……ネオン。喜びなさい。そのうちフレアにも痛い思いさせられるようにしてあげる」
「え?」
「たぶん、ネオンの痛覚と同期させる方法なら可能なはずだから」
ネオンは項垂れながら、不満に怒鳴るフレアと言い争いを始める。ナデシコは喧嘩を無視してアンナリーゼのそばに向かい、王宮へ話しかける。
「姉君、姉さん方。無事?」
声をかければクエリの返事がすぐにやってきた。平常心そのものの声は、ネオンにまつわる動揺すべてを打ち捨てた果てのものだった。
『ええ、ネオンの顔を見てから倒れることにしたわ。ナデシコ、天導教に動きは?』
「まだ。ないはずがないと思うんだけれど……」
ナデシコがアンナリーゼを見れば、頷きが返ってくる。アンナリーゼも思考を切り替えて動揺を放棄すると、教皇の異質を頭に浮かべた。一瞬だけ目を閉じて、大剣に触れる。
「拙も同意する。教皇のイウリィとシェスカ殿への執着を思うと、イウリィを見逃すとは考えにくい。あとは、そう。ネオンが教皇を天使の末路と形容していた」
『ネオン。教えて』
ネオンもフレアと争いながら話は聞いていたようで、すぐにクエリの声に答える。思い出すだけでも吐き気を覚える、腐り果てた冒涜の肉塊を脳裏に浮かべた。
「あの男を見た瞬間、あれは存在してはいけないと私とフレアの感覚が一致しました。だから試しに殺して、あれの肉と命の繋がりが溶けたときの手応えで、王冠と悪魔の肉体を溶かし混ぜて、挙句の果てに腐ったものと私たちは直感した」
「拙にネオンの感覚は理解できませんが、教皇は何度もイウリィとシェスカ殿を砕いて混ぜると口にしていた。そのうえ何度殺しても現れるし、あれは美に執着して腐敗を拒んでいた。腐敗が中核にあるのは間違いないかと」
『……殺しても、現れる』
荒唐無稽な事実もクエリは受け入れ、深く息をついた。魔術も王冠も知らない自分では、最適解に辿り着くのは不可能だとすぐさま理解して、投げる。
『ナデシコ、ここは任せたい。私の知識ではとうてい理解できるものではないわ』
「ええ、任せて。とりあえずネオン、フレア」
「ん?」
ナデシコは指を地下に向けて、ネオンを見つめる。破壊という一点においては、ネオンは竜帝も凌ぐと理解したから迷わず任せた。
「あたしたちの足場を壊さない程度に、封印ぶっ壊してきて。多少は痛手になるはず」
「わかった!」
ネオンはすぐさま大穴に飛び込んでいった。フレアも出し惜しみをしていないようで、轟音と焔が爆ぜる音があたり一帯に響き始める。
ネオンの破壊に釣られてハルピュイアも動き始める。やや距離を空けていたアゥダーリーがやってきて、ナデシコに尋ねた。
「ナデシコ殿、あれは大丈夫でしょうか? ネオン殿とフレア殿の疑惑を考えると、また王冠を拾ってきてもおかしくないのでは?」
「ええ、その可能性はある。けれどフレアが元気なのはほんっとうにありえない事故がいくつも重なったからでしょうし、封印されている状態なら精神が混ざることはないわ、きっと。もしまた変な事故を起こしたら固着する前にあたしが対処するし、王冠だけを拾ってくれるなら、むしろ戻しに行けるだけありがたいってものでしょ?」
ナデシコは頭を痛めながら、王冠を拾う、という本来ならありえない言葉選びで話を進める。アゥダーリーも眉根を若干寄せながらも、ええと頷いた。
話の中、俯いていたイウリィが面を上げる。声には緊張と、屈辱を飲み込んだ怒りが宿っていた。
「ナデシコさま。あの男はきっと、お母様を天使というものに使うと思います。私が王冠を受け取ったから、きっとお母様はもう封印に耐えられない。あの男ならお母様が朽ちていく前に、使おうとするはずだから」
「……うん、ならその可能性で考えてみる。ヴァーチェ、ドラゴンをどう作ったかって話は伝わってる?」
「いいえ、そこまでは。わたくしたちの記憶では、天使ドラゴンは悪魔の肉体と王冠によって作られたとだけ」
「……核は?」
「いえ、少なくともドラキュリア派の記憶にはありません」
ヴァーチェは断言する。まだ歳若くても、たった三人しかいない異端派閥の後継者だ。ドラキュリア派が持つ情報源としてヴァーチェを疑う余地はない。
ナデシコは頷き、あまりにも足りなすぎる情報から違和感を探して。不意に、どこかが繋がっている気配を感じた。
「……ドラゴン、腐った教皇、イウリィ」
とんとんと、無意識に指で腕を叩く。師匠はどこだと無意識で探す。速度が足りない。気付いているはずなのに言語化が追いつかなくて、答えが見えない。
「竜の肉体。腐敗。王冠。混ぜて、溶かして、砕いて、腐った。美への執着。イウリィと、お母上と。腐敗を否定。そう──自分の否定」
思いついた単語をどんどん並べていく。腐敗を拒む、己が腐った天使の末路。「あ」とナデシコの口が開いた。
「今も試行錯誤が続いている。素材はそのまま。核を変えて、試みている。ドラゴンは天導教を否定した。教皇は腐った。だから次はイウリィを──天使の末路が悪魔に産ませた子を核にしようとしている」
ナデシコは口にして、自分の声を聞いて、その中身のおぞましさに背筋を震わせた。反射的にイウリィを見る。イウリィはアゥダーリーに寄り添われて、しっかりと頷いていた。ならばと、ナデシコはさらに思考を言葉にしていく。
「なら、動く。絶対に動く。逃すわけがない。水底揺籃を継承したイウリィを逃すなんて、あいつらからすればありえない。だからあたしたちの最低条件は──今度こそイウリィを守り切ること」
言語化を終えて、ナデシコは硬直していた呼吸を戻した。喉が乾いて、思考に回されていた血液を取り戻した心臓が一気に早鐘を打つ。
ぜ、と荒くなった息がこぼれた。考察に不要な情報が戻ってきて、その瞬間、二人の父が動いたことをナデシコは思考より先に理解した。
「ぴゃっ!?」
暴風が吹き荒れる。アンナリーゼに庇われたヴァーチェの悲鳴がこぼれる。イウリィはアゥダーリーに守られて、ナデシコはオドゥに地面へ押し倒されていた。
「エンラ! てめえ抜かるんじゃねえぞ!」
「もちろん。ただ運ぶだけのつもりは、元よりない」
オドゥはナデシコに覆い被さり、エンラに叫ぶ。オドゥに守られるナデシコの視界には、異形の純白と白銀の竜帝が映っていた。




