迷子の帰り路
エンラは場の威容を壊さないようにと、ひたすら無言で耐えていた。そしてフレアの意識が表から退いた途端に、苦々しく身体を震わせて俯く。
「あの鳥は何をどこまで想定していたんだ……」
「エンラ、悪いこたぁ言わないからもう考えるな。あのクソボケ鳥類のことだから、本能とその場の勢いと実力だけで率いてるんだろうよ」
オドゥは瓦礫の山の上で、ハルピュイアの殺気すべてを見つめながら獰猛に微笑むネオンを見る。せめて自分の表情を自覚していればいいが、と嘆息だけを落とした。
ナデシコはフレアが引っ込むとまず、アンナリーゼに目を向けた。一見すると目を閉じて、腕を組みながら泰然と構えているように見えるが、内心ではもう卒倒寸前になっていると直感で理解できてしまった。どうかお願いだから、ネオンまでアンナリーゼを今よりさらに追い詰めないように──と、ナデシコ自身も無駄を悟った祈りとともに、ネオンへ声をかける。
「ネオン、あなたも何か言っておきなさい。今のうちに線引きしておかないとひどいことになるわよ」
「……私が後始末しなきゃだめ?」
「しなさい。いいから黙って今すぐに。なんでフレアが絡むとネオンまでおバカになっちゃうのよ、まったく……」
ナデシコが心の底からの呆れをこぼせば、イウリィはくすくすと楽しそうに笑っていた。イウリィはにこにこと笑いながら、離宮の中と変わらない調子でネオンに呼びかける。
「ネオンさま。ネオンさまだって私に号令をさせたんですから。ネオンさまだけ逃げるのは卑怯ですよぅ」
「む、さすがにそれを言われちゃうと、うん……。はぁ、そこのハルピュイアたち」
ネオンが嫌がっていたのはフレアの後始末をさせられること、ただ一点だったらしい。呼びかけは淡々と、迷うことない確信に満ちていた。
「しょうがないから受け入れてあげる。もともと、返しても問題ない状況になればエダに戻すつもりだったしね。むしろ話が簡単になって、私もやりやすい」
ハルピュイアたちは口を挟まず、ネオンを鋭く見定める。フレアが瓦礫の上からハルピュイアたちを見下ろしていたから、位置関係は今もそのまま。この状況で自ら瓦礫に腰を下ろして頬杖をついたのは、果たして計算か本能か。
「一でも十でも好きに組んで挑んでおいで。君たちが私よりも強くなって、王冠を守れるなら返してあげる。──ただし」
声が凍って、見下した。
ネオンに侮蔑はない。むしろ好んで、楽しんでいる。それでも人の小娘に見下されているのだと──その屈辱を許してしまうほどに差があるのだと、ハルピュイアたちが直感してしまう。警句を発する今この瞬間だけは、ネオンは彼らを獲物とも思っていなかった。
「私以外に手を出すな。私の大切な人たちやシュトラルに危害を加えた者は、王冠を預かる資格なしと見做して殺す。君たちの流儀に付き合うような遊びもしない。殺した後にその肉を下水道のネズミに与える。君たちの王と同居してるよしみがあるからね、これでもハルピュイアのことは好きなんだ。だから、私がそこまでしてあげる必要はないと思っているけど、一応ね」
それだけを告げて、ネオンは瓦礫から飛び降りた。ますます気苦労が透けて見えるようになったアンナリーゼの腕を引っ張って、嬉しそうにナデシコのもとへ連れてくる。
ナデシコとアンナリーゼは厳密には初対面ではないが、クエリに仕組まれた襲撃の最中ですれ違っただけのようなものだ。ネオンも声を弾ませて、アンナリーゼと切り裂かれていた時間を埋めるような甘え方をしながらナデシコを紹介する。
「リズ姉、ナデシコが私のお嫁さんなんだ。すごくね、強くて綺麗な竜なんだよ」
「いや、何言ってるのよあなた」
ハルピュイアたちに告げた冷酷さと甘えの声の落差が大きすぎる。フレアへの脅迫をうっかり聞かれてしまったことで自制のタガが外れたのか、ネオンの雰囲気は流れるように切り替わり続けていた。
ネオンに褒められる気恥ずかしさよりも呆れが大きくて、ナデシコはため息を落としながら顔の半分を覆う。ナデシコの玻璃の鱗にも、アンナリーゼの疲れた目が反射していた。
「……姉上たちは、ネオンをどうやって育てたのか」
「とても言いにくいんだけど、たぶん全部本能でやってるわ。フレアとまったく同じよ、この子」
「え? いや、私もさすがにフレアほどバカじゃない──っ!?」
ネオンの口から、反射の速さで遺憾と困惑の声がこぼれた。ナデシコはネオンの額を軽く弾いて黙らせると、アンナリーゼに向き直る。考えていることは同じだったようで、アンナリーゼもナデシコの瞳をまっすぐ見据えて、まず頭を下げていた。
「あのときはすまなかった。拙があなたを襲ったことは本気だったから」
「その件の非は全面的に姉君にあるわ。すべて、何もかも。それでえっと……アンナリーゼ姉さんとでも呼べば?」
ナデシコが問いかければ、アンナリーゼはまず目をぱちくりと、何度か瞬きさせた。悪魔祓いの英雄とは思えない素朴な姿を見せたあと、嬉しそうに笑う。
「リズと。ナデシコにもイウリィにも、できればそう呼んでほしい。拙の家族はみんな、リズと呼んでくれるから」
「はい、リズさま」
真っ先にイウリィが肯定して、嬉しそうに呼びかける。アンナリーゼはイウリィに微笑みかけると、ヒレを彩ったままの耳飾りをじっと見て、ナデシコに尋ねた。
「ナデシコ。耳飾りへの盗聴はあなたが?」
「ん? ええ、もしかして気配が残っちゃってた?」
「盗聴中だけ、おそらく。ほんのわずかだったから気のせいかと思ったけれど、やっぱりか」
アンナリーゼの呟きには感嘆と敬意がこもっていた。同じサイレンスであっても、ナデシコとアンナリーゼの性質はまったく異なる。アンナリーゼが姉として立ち返っていた中に、武人の色がほのかに差した。
「拙は出力で無理やり無詠唱にしているだけだから、ナデシコみたいな真似はできない。上姉さんと下姉さんが嬉しそうに話すわけだ」
「姉さん方が?」
「ああ。リズのゴリ押しよりよっぽど綺麗で精密だから、会ったら教えてもらいなさいと何度も言われた。依頼しても?」
「帰ったらいくらでも。あたしもリズ姉さんの出力は見てみたいし、おあいこってことで」
サイレンスたちの噛み合ったやりとりが交わされる。ナデシコからお仕置きを受けて、まだその場に座り込んだままだったネオンが足音に振り返れば、やってきていたのは琥珀の鳥を抱えたヴァーチェ。
ヴァーチェは殺気だったハルピュイアたちにびくびくと怯えながらも、安全圏めがけてまっすぐにやってくる。ヴァーチェはナデシコのすぐそばまでやってくると、ほうと息を吐き出した。
「……生きた心地がしませんでしたわ」
「お疲れ。もしかして姉君たち?」
「ええ、殿下方からです。あの元隠密のお方がわたくしに持って行けと。ええ、彼も鬼ですわ、鳥ですわ……」
ヴァーチェの中ではもはや、鳥が恐怖の代名詞になってしまったらしい。殺気だったハルピュイアの群れに囲まれ、フレアの狩猟本能を煽り立てる宣言を聞いて、ネオンの警句を耳にすれば当然か、とナデシコはヴァーチェの肩を叩いた。
ヴァーチェはうう、と嘆きながらも鳥を差し出す。ネオンが岩盤を抉って以来、今後の対処方法を検討すると沈黙を選んでいた双子の声がやってきた。
『リズ、そこにいるのよね? 私たちの声が聞こえていたら、あなたの声を聞かせてちょうだい』
「ええ、ようやく合流できました。上姉さん、下姉さん。今度こそ拙も帰るから、ご心配なく」
『……ふふ、ようやく。ようやくね。私たちの可愛いリズが、やっと迷子から帰れるのかしら』
「そんな、子供みたいな」
アンナリーゼの言葉は文句じみていても、声音には安堵が滲んでいた。そこにクエリの声が重ねられて、姉としての不満をありありと表明する。
『迷子としか言いようがないでしょう? 私が迎えに行っても結局また迷子になって、妹に迎えに来られてようやく帰ると決めたんだから』
「……拙が迷子だとすれば。その迷子に長年仕事を振り続けていたのはどこの姉上でしょうね?」
ぐっ、と明らかにクエリが声を詰まらせた。ナデシコの説教がまだ効いているようで、反論はやってこない。
くすくすと双子が笑う。クエリは双子にからかわれ、しばらく撃沈した後に、アンナリーゼへ語りかけた。
『リズ。この際だから、貴女もこれまでの不満を全部解消して帰って来なさい。ネオンがこれだけやってくれた後だから、どんな責任問題が増えても変わらないわ』
「ええ。拙も甘えさせてもらいます。個人的な恨みもあるし、何よりここは一度、すべてを壊す必要がある」
アンナリーゼが思い出すのは、水底揺籃たちの継承。
ネオンはあの教皇を天使の末路と形容した。悪魔たちの肉体と王冠を砕き、混ぜ、溶かした先にある天使。その冒涜が決して許されないことをシェスカの誇りとイウリィの歌に思い知ったから、躊躇わない。
クエリはアンナリーゼの返答を聞くと、相槌を打って頷いた。そうして反射で切り替わっていた意識を一瞬だけねじ伏せて、最後に一言。長姉としての言葉を伝えておく。
『おかえりなさい、リズ。これから先の貴女の人生に、一人でどこかに出かける自由はないと知りなさい』




