戴冠・宣告・狩猟を讃えよ
号令に応えて、すぐさまアゥダーリーは飛び降りた。その意味を心のどこかで悟りながら、ナデシコはエンラへ呼びかける。
「お父さん、降りましょ。いったん合流した方が良さそう」
「……うん、そうだね」
ほんの少し前まで空気に満ちていた混乱は消えていた。アゥダーリーの言葉はそれだけの重みを全員に理解させている。
イウリィ、と。ナデシコは心の中だけで呼んだ。あの場所で海の王冠を正しく継承できるのは彼女しかいない。いつか母を取り戻すのだと祈り、歌っていた姿を思い出して、ナデシコは鋭い犬歯で歯噛みした。
エンラはネオンが開けた大穴のそばへ降り立つ。ネオンとアンナリーゼが後方で見守る中で、アゥダーリーはイウリィに跪いていた。
「我らが王、次なる水底揺籃よ」
アゥダーリーは静かに呼びかける。イウリィの顔は青ざめて、自分がそう呼ばれる資格はないと怯えていた。
けれど否定する言葉は確かに、イウリィこそが海の揺籃なのだと思わせて。
「いいえ──だめ、だめです、アゥダーリー。私に王冠を継ぐ権利はありません。私に力はない。私は王冠を守れない。海に戻すために、次の王に託すために、私は預かっただけなんです。私には、海を守る力がないんだから」
「……イウリィ様。水底揺籃の号の意味を、ご存知ですか?」
イウリィの口から、問いかけへの疑問が小さくこぼれた。今、どうしてそんなことを尋ねるのかと疑念を露わに、心が知っていた意味を答える。
「海の、ゆりかご」
「ええ、その通り。我らが王の第一義は武力ではない。海を慰撫し、祈るゆりかごであることなのです。だからこそ海の王は常に、水底揺籃の号を継いできた」
かつてシェスカに侍り、悪意に奪われ二十年が経っても怒りを絶やさなかったアゥダーリーだから言えるものだった。イウリィも自らに傅くセルキーが母に向けていた想いを知るから、何も言えずに立ち尽くしている。
アゥダーリーは面を上げた。自分には玉座を預かる権利がないと怯える少女に向けて微笑み、己が知る真実を告げた。
「海に戻り、王になれとは望みません。あなたの救いが地上にあることは存じていますから。……けれど、これだけは覚えておいてほしいのです。シェスカ様は器なき者に王冠を託すお方ではない。もしもイウリィ様に資格なしと判断していれば、どのような不可能があろうとも自ら海に戻ろうとしたでしょう。シェスカ様はあなたが海を祈り、慰められる方だと見定めたから、王冠を委ねたのです」
「っ……お母様、が」
イウリィの瞳に涙が滲んで、けれどこぼれない。弱さを見せまいと震えながら耐える王の姿に、アゥダーリーはかんばせをほころばせた。
「力がないと仰るのなら、私をお使いください。どうやら盾はすでに十分以上なようですから、私がイウリィ様の矛になりましょう。……もちろん、他の者たちも。エダに助けられ、間に合ったのが私一人だったというだけで、海はすでにあなたを迎えております」
迷うことなくアゥダーリーは断言する。アゥダーリーは曇りなく、イウリィに透明な敬意と忠義を向けている。
イウリィもその思いを実感しているから、なおさらなのだろう。アゥダーリーに尋ねる声は、信頼と愛情と不安が入り混じるものだった。
「……アゥダーリー、どうして。どうして、ここまで、私に? 私にはあの、おぞましい血があるのに」
「その程度のものにあなたの価値は侵せません。──イウリィ様。あなたの優しく暖かな歌と祈りは、シェスカ様に瓜二つですよ。初めてお会いしたときに、私はとっくに悟っていたのですから」
アゥダーリーは笑う。イウリィの喉から、吐息と歓喜の音がこぼれる。
躊躇いと、海に受け入れられた喜びと、二つの感情でイウリィは視線を落として。やがて膝を折って、アゥダーリーの手を自らの両手で包み込んだ。
「……アゥダーリー。海の怒りを、私たちの慈母の弔いを、今こそ果たしましょう。私がお母様の娘であり続けるために、あなたの力を貸してください」
「御意に。ええ、あの悪意の坩堝どもに、我が二十年の恨みと無念を叩きつけましょう」
イウリィはアゥダーリーの手を離して、立ち上がる。
継承も戴冠も、イウリィは成し遂げた。海の王である資格を自ら示した。ナデシコはその姿を見届けて、もう我慢の限界だった。ナデシコはイウリィに駆け寄って、理解させる猶予も与えず抱きしめる。
「ナデシコさま──」
「まったく、ネオンもイウリィも、どうしてほんの少しでここまで強くなるんだか。ちょっと前までどっちも崩れそうだったくせに」
「……ふふ、ひどい。ネオンさまにも私にも、そんな悪口考えていたんですか?」
「ええそうよ。ネオンはいつ壊れるかわからなかったし、イウリィは事情がややこしすぎたし」
「ふふ。ええ、そうです。その通りです、ナデシコさま。ネオンさまのお嫁さまがナデシコさまだったから、私は王冠を受け入れられました」
「いや、あたしはそこに関係ないでしょ?」
「あります! 初めてお会いしたときにナデシコさまが私を見ても驚かなかったことが、どれほど私を救ってくださったか。ナデシコさまが知らないだけです」
イウリィはぐりぐりと、甘えを露わにナデシコの胸元に頭を押し付ける。ナデシコはイウリィの髪とヒレを撫でて、受け入れる。
ネオンはアンナリーゼの隣でそのやりとりを見つめていた。自分を癒してくれた人魚と、支えてくれた玻璃竜の姿に満足すると、自分を射殺すように見つめるエダへ意識を向けた。
「久しぶり……ってほどでもないか。どう、私に勝てるようになった?」
「嫌味か侮辱か噛み殺すぞ……」
「ん、なんか元気なくない? フレアなんか身体もないくせにずっと騒いでるんだから、エダももっと頑張ろうよ。ほらほら」
「ネオン、なんだか可哀想だからやめてあげなさい。あれは本気で傷ついている者の雰囲気だ。拙たちが子供の頃、上姉さんと下姉さんが加減に失敗してよくあんな顔をさせていた」
「貴様ら二人まとめていつか噛み殺す……」
エダは疲弊に翼を項垂れる。まだ確定していないとはいえ、ナデシコが告げた推測は確かに、フレアならやりかねないと理解できてしまうからタチが悪い。そのうえ王冠をネオンに渡して守らせるという判断が正しいと確信できるせいで、ぶつける先がないエダの嘆きは深まっていくしかなかった。
大穴の周囲にはバチバチと、暁の焔が燃え盛っている。エダがぐぅと歯噛みする姿を楽しげに眺めていたネオンの視線が不意に、空中に縫い止められて独り言を呟いた。
「ああ、はいはい。いいよ、変なことさえしないなら好きにして。──リズ姉、少し交代するね」
「……ネオン。帰ったら何もかも、すべてを正直に話しなさい。拙はもう倒れそうだ」
アンナリーゼの心労に返答はなかった。ネオンとフレアは宣言の直後に意識の主体を切り替えて、目線の鋭さが明らかに変化する。
「エダ」
たったそれだけの呼びかけ。ネオンの声質は何も変わらない。けれどエダはすぐさま面を上げて、臣下の礼を自然に取っていた。
「……遅参のお許しを」
「気にするな。お前の判断は正しいと知っているから、俺はお前を後継にしたんだ。──率いてきたな?」
「もちろん」
「呼べ。俺はハルピュイアの声を失ったが、一つ伝えることがある」
「ええ」
肉体を失っても王の威容は消えていない。エダは迷わず待機させていた同族に呼びかけて、フレアの宣言に備えさせた。
フレアはネオンの肉体で、瓦礫の山の上に立つ。その場すべての視線を集めながらフレアは腕を組み、獰猛に笑いながら、エダの召集を受けて集まってくる同族たちを睥睨した。
「……久しいな、お前たち」
少女の身体。少女の声。人間の身体に押し込められて、かつての肉体の面影はどこにもない。けれどフレアの調子は生前とまったく変わらず、ハルピュイアはフレアという覇者そのものが生きていると理解する。
王冠の力を渡しているうえに、フレアの意識が表に出ている状態だ。今や暁色が主体になった瞳で、フレアは唇を吊り上げた。
「聞け。俺がお前らすべてに呼びかけるのはこれが最後だ。我らハルピュイアの王冠を預かっていた者として、最後に伝えることがある」
一帯には静寂が満ちていた。フレアは自らの焔が弾ける音を背負って、告げる。
「俺はこいつに負けた。ああ、完膚なきまでに敗北したさ。翼を折られ、喉を引き千切られ、眼球を潰され、負けた。俺もこいつの身体を焼いて、骨をいくつか粉砕してやったはずだが、この通り五体満足で見た通りの暴力を振るう様だ。まったく、腹が立つ」
敗北を語っても、決して矜持は揺らいでいない。フレアは嘆息をこぼしながらも、己こそが空の覇者であるという自負は何も崩れていなかった。
暁のフレア。だからこそ彼は、空の狩猟者たちを率いる器を認められた。
「俺は敗北した。ここの異形どもに王冠を渡さないためとはいえ、結局人に委ねるザマだ。嗤え。最悪の王だったと伝えろ。俺はそれだけの屈辱をお前たちにもたらした。──だが」
フレアの笑みが深まる。瓦礫の山を玉座代わりにして、ネオンの首を示した。
「考えてみろ。こいつは俺たちの王冠を持っている。俺を殺した上に、今となっては付け入る隙が一つ消えたからな。俺よりも遥かに強いが──お前らの王ではない。だから、挑み、殺して、王冠を取り戻すことが許される」
フレアは己のすぐそばで侍るエダに目を向けた。瞳を鋭く歪め、笑って、楽しそうに呼びかける。
「エダ。お前の後継は白紙にする。次の王は、こいつを殺した者だ」
「ええ。それでこそ、空の覇者です」
「はっ、この有様でまだ言えるならお前の忠義も天晴れだ。──いいな、空の者ども! 俺の意思をこの場にいないすべてに伝えろ。そして天導教の玩具を切り裂き、噛み殺せ。王冠を取り戻すための前哨戦だ。この場で苦戦するようなら、王冠を求める資格はないと自覚しろ。この娘はそれだけ強かった。……さあ、終いだ。こいつに善戦できるなら、たまに顔を出してやる」
狩猟者たちの王はネオンの内に戻り、その姿を消す。
静寂はまだ消えない。けれどこの場すべてのハルピュイアたちの戦意と殺気が、瓦礫の山の上に立つネオンに叩きつけられた。
「……はあ。また勝手に決めたよ、こいつ」
主体に戻されたネオンはため息をつきながら、ハルピュイアたちを見下ろす。
空を支配するハルピュイアたちの戦意を受けて、ネオンは穏やかな空気のまま、口元だけを吊り上げていた。




