朽ちた教皇
ハーゼンのイウリィと呼ばれること。ヒレや鱗を隠すように強制されること。
イウリィにとって何もかもが不愉快で仕方ない。天導教の者に連れ戻されてから事あるごとに腹の奥に落ちて、燻り続けていた苛立ちは、教皇と対面した瞬間に火がついた。
「久しいな、イウリィ」
「っ──あなた、は」
教皇の執務室で父親の姿を見た瞬間に、イウリィの思考は熱に焼かれる。身体がわなわなと震えて、今すぐにでもその首を絞めようと手が勝手に動きたす。次から次に湧き出してくる感情が強すぎて、声もまともに出てこない。
天導教の頂点、大陸最大の宗教を束ねる男は、朽ち果てていた。見た目の年齢は四十代程度なのに、まとう空気が枯れている。生物に付きまとう生気がない。死にながら動いているような、そんな男。
瞳の見目も人と同じはずなのに、空洞と直感させる致命的な違和感。母の仇と憎み、怒りを抱え続けたイウリィの心ですら本能的な恐怖を覚えてしまう。数年振りの対面でも、やはり得体のしれないおぞましさは這い寄ってきた。
教皇は立ち上がると、杖をつきながらイウリィの目の前までやってくる。イウリィの激情などわかりきっているはずなのに、ひどく無防備な姿だった。
「美しく育った。──やはり、お前はシェスカの娘だ」
その瞬間。イウリィの視界はあまりの怒りで白く染まった。
手の届く距離にある、この世で最も憎い男の首。手を出せば自分の命はないだろうと知っているのに、身体が動いていた。
殺す。母の娘として、海の命として、大海の慈母を弄び、辱めた男の生は許さない。海の怒りと憎悪を目の前の男に知らしめねばならない。
イウリィの殺意には躊躇いが挟まる余地もなかった。けれど教皇の首に手がかかる寸前に、イウリィの首根っこが掴まれる。
この場で斬り捨てられてもおかしくなかったのに、教皇とイウリィを引き剥がす手際はひどく丁寧で優しい。イウリィは憎悪と混乱に飲み込まれながらも振り返って、いつのまにか現れた悪魔祓いの容姿に声を失った。
「……猊下。戯れはやめてもらいたい。拙もそのうち面倒になってあなたを斬り捨てたくなる」
「そうか。ならいずれ、私の首を退職金の代わりにすればいい」
教皇の返しに、黒髪と緑の瞳が特徴的な悪魔祓い──アンナリーゼ・シラ・シュトラルは嫌悪のこもったため息をあからさまに吐き出す。
アンナリーゼはイウリィへ、ちらと一瞬だけ視線を向けてから、執務机の脇に立った。
イウリィは目の前の悪魔祓いがシュトラル王室の四女であることは知らない。けれど──似ていると。色合いや声、まとう雰囲気がイウリィの直感を刺激して、ネオンの姿を連想させる。
まさか彼女が件の「リズ姉」なのか。アンナリーゼの姿だけで、怒りに支配されていたイウリィの自我が戻ってくる。声はまだ出せなくても、現実を俯瞰できる余裕が生まれていた。
「……人と共に歩み、道を拓き、いずれ楽園に至る、美しき万華鏡」
椅子に戻った教皇はぽつりと、誰に聞かせるでもない調子で呟いた。空っぽの瞳がゆっくりと、イウリィに向けられる。
「イウリィ。お前ならば、あの万華鏡を完成させられるだろう。自ら砕くことも、腐らせることもなく」
「……いつになっても、頭のおかしさは変わりませんね」
「そうだろうな。対話をするつもりはない」
実の娘に向けるものとは思えない言葉だが、教皇の口ぶりには嫌悪も悪意もなかった。ただ本心を告げているだけだと理解させられるからこそ、本能を刺激するような得体の知れなさがいやましていく。
教皇はイウリィを見つめたまま、アンナリーゼに声をかけた。
「アンナリーゼ、イウリィを」
返答を待たずに立ち上がり、杖をついて廊下に向かう。つい今しがたイウリィの殺意を浴びたばかりだというのに、身を守ろうとする意思が見えない歩き方だった。
アンナリーゼは返事の代わりにため息を落とすと、淡々とした声で端的に告げた。
「拙の後ろに」
それだけを言って、アンナリーゼは教皇のあとを追う。振り返りもせず、イウリィが置いていかれない歩調で歩く姿はやはり、ネオンを思わせた。
無理やり連行しないのは、イウリィに抗う術がないことを承知しているからだろう。けれど、だからといって威圧の気配すらないのは不可解だった。教皇の前に引き出されるまでは常に監視と警戒があったのに、アンナリーゼはどちらも向けてこない。
ネオンと似ているから気を緩めてしまっているのか。卓越した武人だから、わざわざ警戒を見せる必要もないのか。
わからない。殺意の衝動が鎮まっただけで、憎悪は今もイウリィの脳を溶かしているのだ。普段なら落ち着いて考えられるはずなのに、アンナリーゼを見るだけで混乱が思考のほとんどを占めてしまう。
自分でも掴めない心と思考に耐えかねて、イウリィは思わず尋ねかけていた。
「その、あなたは──」
イウリィが呼びかけてすぐ、アンナリーゼは緩やかに足を止める。アンナリーゼは振り返ってイウリィと視線を合わせると、首を横に振った。
「今は、こちらに」
やはり言葉少なに答えて、また歩き出す。静かな声と表情は執務室にいたときから変わらないはずなのに、今のアンナリーゼの雰囲気にはどこか既視感があった。
イウリィは回らない思考を手繰り寄せて、どうにか既視感の源を探そうと試みる。絶対に知っている表情なのに、次から次にと激情が湧き出てくるせいでなかなか思い出せない。
自分の情けなさに思わず嘆息がこぼれて、ナデシコの姿を思い出す。聡くて、優しくて、不器用な彼女なら同じ状況に置かれても、決して思考は手放さないだろうに。
と、不意にナデシコを思い出して、緊張がほんの少し緩んだのが良かったのだろう。アンナリーゼに見た既視感の源を、唐突に思い出した。
「……ネオンさま」
ネオンが抉られた心を隠すときの笑顔。クエリの柔和な表情がほどけて、隠しきれない憎悪を覗かせる瞬間。ウルミアとミラリスが快活さの奥に秘めている、他者への奉仕と気遣い。
イウリィの大切な人たちはいつも本心を仕舞い込んで、押し潰している。アンナリーゼの雰囲気も、イウリィが思い出した表情とまったく同じだった。
イウリィはヒレにつけた耳飾りに触れる。何のために天導教に戻されたのかはわからなくても、耳飾りという合図に触れれば見捨てられたわけではないと信じられた。
アンナリーゼは地下への階段を降りていく。外の光が差し込まない廊下は薄暗くて、どこか不気味だった。教皇は随分と先にいるようで、足音の反響も聞こえない。
イウリィもアンナリーゼも口を開かず、一本道を歩き続ける。足音だけが響いていた。
いつまでこの廊下は続いているのか。イウリィがそんな疑問を抱き始めたころに、とうとう景色が変化した。
壁の左右にずらりと並ぶ荘厳な扉。扉はいずれも強固に施錠されていて、この場所は天導教の機密なのだと嫌でも理解させられる。
無数にある扉の中で、一つだけ開け放たれたものがあった。アンナリーゼは迷わずその扉を目指している。イウリィもあとを追うが──言葉にしたくない嫌な予感が、目指す扉に近付くごとに膨れ上がっていく。
心臓が暴れる。勝手に動いている直感から目を逸らしたいのに、心臓の痛みと喉に張り付いた渇きが逃避を許してくれない。
足はひとりでに動き続ける。手が震えて、無意識に腕を掴んでいた。アンナリーゼはイウリィを見ると、ほんの少しの時間だけ視線を落としていた。
逃げたい。逃げられない。行かなくてはならない。見なくてはいけない。
イウリィの意思は、恐怖と義務でぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。息が乱れていないのは、あまりの緊張で崩れることすらできていないからだった。
とうとう扉にたどり着いてしまう。今まで先導し続けていたアンナリーゼは扉の前で足を止めると、一歩譲ってイウリィの背中を柔らかく押した。
地下深くの空間にはやはり教皇もいた。いつもなら決して目を離せないはずの相手が目の前にいるというのに、イウリィは教皇がいることにすら気付かなかった。
──人魚が、磔にされていた。
鎖で雁字搦めに拘束されて、閉じたまぶたに開く気配はない。呼吸もしていない以上、定義としては死骸なのだろうが、肌も髪も鱗もまだ生きている。人の目を吸い寄せる美貌は一つとして損なわれていない。
「お母、さま」
生きたまま人形にされたような、決して朽ちることのない美しさ。死にながら動いているような男は、わずかな情感をこめて呟いた。
「……やはり、この女は美しい」
水底揺籃のシェスカ。
イウリィにとってこの世で最も愛しくて、いつか封印の闇底から取り戻すと誓った母だった。




