万華鏡・姉妹
「お母様」
崩れ落ちた足を震わせて、イウリィは這いつくばるようにシェスカの元へ。
「お母様」
自分のヒレと鱗の色合いが、母と同じだと気付く。
「お母様」
シェスカを戒める鎖を掴んで、どうにか立ち上がる。身体がまだ脱力しきっていても、衝動は抑えられなかった。イウリィは倒れかかるように、母の背中に両腕を回す。
「お母様──やっと、お会いできた」
人の言葉を紡ぎながら、イウリィは人魚として歌う。歌っていればきっと、いつものようにシェスカが心に歌いかけてくれるのではないかと思って。
人魚の歌は人間の耳が捉えられるものではない。教皇とアンナリーゼに感知できるのは、イウリィの歌が磔刑場の空気をさざなみのように揺らしている感覚だけ。
「……美しいとは、言わないのか」
アンナリーゼが静かに尋ねる。教皇が答えたのは十秒以上も経ってから。アンナリーゼ自身も返答がやってきたとは即座に理解できなかったほどに独白めいていた。
「ガラスの美が見出されるのは、砕いて混ぜたときだ」
教皇は杖の音を立てながら、イウリィの背後に立つ。シェスカに縋り付くイウリィの肩を掴み、強引に引き剥がした。
「イウリィ」
イウリィは答えない。瞳を涙の膜で潤ませながら、目線で憎悪と怒りを叩きつける。教皇はやはりイウリィの心など目に入っていないように、抑揚の欠けた声で告げた。
「水底揺籃の王冠を継承すべきはお前だ。次にシェスカの意識が浮かんだとき、お前に王冠を継承させる」
「……何の、権利があって」
荒れ狂う心から、どうにか言葉を絞り出す。
二十年以上の長きにわたって生き人形にされていた母の姿も。母が歌ってくれる瞬間を穢そうとしていることも。大海の誇りである王冠を所有物のように語られることも。
何もかもが許せない。目の前に母がいて、仇もすぐそばにいるのに、何もできない自分が許せない。母には綺麗な歌だけを聴いてほしいのに、怒りが人魚の声を濁らせてしまう。
教皇の目的はイウリィに要求を告げることだけだったらしい。イウリィから離れると、シェスカの姿を一目で観察できる距離まで下がる。アンナリーゼは小さく吐息を落として、意識を静めるように大剣の柄に触れた。
石の床にへたりこんだイウリィは腕を掴み、身体の震えを抑えながらじっと下を向いていた。たっぷり五分以上かけて激情を心の奥に隠してから、どうにか疑問を声にする。
「……何が、目的なんですか」
「見たいものがある。それだけだ」
「お母様を、こんな有様にしてまで?」
教皇の思惑がおぞましいものだということはわかっている。これ以上、何も知りたくない。聞きたくない。けれど、知らなければならない。シェスカの娘として、ネオンの侍女として、知らないまま囚われていることは耐えられなかった。
イウリィの問いかけを受けて、教皇はまずシェスカが磔にされる姿を見つめる。永劫の美しさを保つ人魚の磔刑へ、教皇はわずかに目を細めていた。
「……何もかも、いつかは腐り落ちる。腐ればあとは、朽ちて崩れるのを待つだけだ」
一体何を考えているのか。いつになく饒舌ながら、その思考の中身は誰にも理解できない。イウリィもアンナリーゼも、本能から湧き上がる嫌悪と拒絶を抑えられなかった。
「どれだけの輝きを誇ろうと、腐れば終わりだ。一度は誰もがその光を認めている分、醜い姿でこの世にしがみつく様はなおさら救いがない。だから、美しいものは永遠でなくてはならない。永遠こそ、美の条件だ」
瞳の奥の空洞が、なおさら暗くなっていく。神を信じているとはとうてい思えない男なのに、シェスカを見つめ、語る姿はどこか祈りを思わせた。誰とも共有するつもりのない哲学を祈りと思わせられることほど寒気を感じるものもなかった。
「イウリィ。お前はシェスカを否定しているようだが、私からすればこの女ほど美しいものはない。お前たち母子があればこそ、万華鏡は完成に至る」
そう告げて、教皇の言葉は止まった。
目の前の男は何を言っているのか。今まで母に行った数々の所業だけでは飽き足らず、さらなる冒涜を重ねるのか。
怒りと情けなさで、とうとうイウリィの瞳から涙がこぼれる。何も言えないイウリィの代わりに口を開いたのはアンナリーゼだった。
「ああ……そうか。あなたは本当に、水底揺籃とイウリィを砕いて混ぜるつもりだと」
「初めから、そう言っている」
「……そうだな。初めから、あなたの言葉は一貫していた」
磔刑場に入ってから、アンナリーゼは初めて足音を立てる。大剣の柄に手をかけると、カツカツと石の床を叩いてイウリィに近付き、すれ違いざまに教皇の首を斬り落とした。
首が落ちる。大量の血液が飛び散る。首を失った胴体が倒れる鈍い音でイウリィは顔を上げて、教皇が名実ともに死体になったことを知った。
「……え?」
「血が出る手合いではあった、けれど──」
アンナリーゼは剣に付着した血液を払いながら、懸念を露わにした表情で呟く。イウリィは何が起きたのか理解できないまま、涙で滲んだ視界でアンナリーゼが近付いてくるのをただ見つめるばかりだった。
アンナリーゼは教皇の死体を一瞥もせず、無詠唱で押し潰す。深く、重く、長い吐息を落とすとイウリィの前で膝をつき、頭を胸に預けさせるように抱きしめた。
「すまない。辛い思いをさせた。……狂人の戯言かと思っていたのに、まさか事実をそのまま言っていたなんて。拙に理解できるわけがないだろう、こんなの」
「……アンナリーゼ、さま?」
アンナリーゼは子供を安心させるように、イウリィの頭を撫で続ける。イウリィの口からは自然と、シュトラルの人たちに向ける敬称がこぼれていた。
イウリィからアンナリーゼの表情は見えない。それでも返ってきた声音は優しくて、柔らかく微笑んでくれているのだと理解できた。
「大丈夫、拙はあなたの味方だ。姉上から、あなたも連れていい加減に帰ってこいと言われている」
「陛下、が」
「上姉さんと下姉さんにも、絶対に守ってあげてと言われたよ。ネオンを癒してくれた、私たちの妹だからと」
まだぼうっとしているイウリィの脳は、アンナリーゼの言葉を遅れて理解する。
じわじわと、怒りでも悔しさでもない涙が湧いてくる。こぼれた嗚咽にイウリィが反射的に声を閉じ込めると、アンナリーゼはイウリィの耳飾りに触れながら告げた。
「泣きなさい。無理に我慢すると、後から壊れてしまう。──あなたはよく耐えた。ここからは拙が絶対にあなたを守るから、大丈夫」
アンナリーゼが本当に味方なのか、証明するものはどこにもない。
けれど、声音の優しさも、頭を撫でる手つきも、妹に向けているような言葉も。それらすべてがイウリィに安心をもたらして、気付けばアンナリーゼの背中に手を回して縋り付いていた。
「う、ぅ、あぁ──アンナリーゼ、さま」
「ああ、構わない。拙だって姉なんだから」
少しだけズレた主張がなおさら、彼女もシュトラルの姉妹なのだと実感させる。アンナリーゼの体温は暖かくて、声も涙も、もう抑えられなかった。
「っ、う、おかあさま、おかあさま、あぁあ──!」
イウリィの心がとうとう堰を切ったように溢れて、言葉にならない言葉が次から次にやってくる。アンナリーゼはイウリィの背中をさすりながら、クエリに対する不満と怒りを隠さない文句をこぼし始めた。
「まったく。姉上のやることが過激なのはいつもだけど、今回は流石にやりすぎだ。確かに姉上の判断は信じているけど、姉上の思惑を成立させるために拙たちがどれだけ苦労するか少しは考えてほしいのに、あの人は本当にもう……」
「っ、う……アンナリーゼさまは、いつから……」
イウリィが聞いていた話だと、ネオンが幼い頃にはすでに失踪していたということだった。少なくとも、クエリたちが先王を弑虐したときにはすでにいなくなっていたと。
アンナリーゼは少しだけ間を置いてから、イウリィの頭を撫でた。
「いろいろと事情がややこしいのだけれど、ここで間諜を始めたのは姉上たちと先王を殺してからだ。姉上ならどうせいつかは天導教にも喧嘩を売ると思ったし、天導教が拙の裏切りを予想するのは無理だったから」
「無理……?」
嗚咽をこぼしながら尋ねる。アンナリーゼは口を開き、返答の直前に雰囲気が一変した。
イウリィを左腕で抱き寄せたまま立ち上がり、空いた右手で柄に触れる。アンナリーゼの警戒に呼応するように、気配のない男が扉の前に現れた。
「そうだな。お前の叛意は知っていたが、シュトラルと繋がっていたのは知らなかった。連絡手段はなかったはずだが」
首を落とされ、胴体を潰された教皇が、また現れた。アンナリーゼが潰した死体がすぐそばに転がっているという異常な状態でも、視界に捉え続けなければ意識から消えてしまうような気配こそ本人証明のようなもの。
戸惑い、困惑するイウリィとはまったく正反対に、アンナリーゼは吐き捨てた。
「やっぱり、まだ動いていたか」
「腐っているからな。驚かないとは、初めて見た反応だ」
「斬った手応えが人間とかけ離れていた。まったく、随分と安い退職金だ」
「そうか」
教皇はそれきり何も言わず、部屋に入るとシェスカの観察を再開する。その姿はあまりにも自然で、アンナリーゼに斬り捨てられたことすら気に留めていないのは明らかだった。
──気味が悪い。
イウリィは生まれて初めて、男のおぞましさだけを直視する。アンナリーゼに抱かれて泣いて、何もかもを流したからだろう。教皇の姿を見るたびに脳を支配する憎悪が今だけは消えて、普段のイウリィのまま考えられる。
やっと理解できた。殺されたのに動いていることよりも、外界のすべてを意に介していない反応の方が遥かに、生物からかけ離れている。この男だけ、世界から切り離されてしまっている。
アンナリーゼに縋る手がわずかに震えた。アンナリーゼは一瞬だけイウリィに目を向けると、戦場に強張る声を発した。
「イウリィ、母君の意識が戻るまで呼びかけてほしい。ここから出るにしても、まずは彼女の状態を知る必要がある」
「お母様の、状態を?」
「手遅れなら、申し訳ないがここで弔う。まだ対処できるなら、姉上に手を打ってもらう」
アンナリーゼの言葉は、母の尊厳を知ってくれている人の言葉だった。
イウリィの思考へ反射的に浮かんだ警戒はすぐさま消える。──落ち着きを取り戻した今は、生まれたときからずっと寄り添ってくれている母の暖かさがいつものように感じられた。イウリィは母との繋がりを頼りに、歌う。
教皇は何も言わないまま、ただシェスカを見つめている。アンナリーゼはいつでも剣を抜けるように、武人の顔に戻る。二人は身じろぎひとつせず、イウリィの歌だけが空気を揺らしていた。




