アホウドリ
「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いて聞いて」
ネオンの耳もとで、ナデシコの声が静かにささやかれる。
イウリィが敵の手中にあるというのに、どうしてナデシコは落ち着いていられるのか──。ネオンは湧き上がる非難めいた気持ちをどうにか抑え込んで、声は出さずに頷きだけを返す。
「そこのボケ師匠の態度からして、状況は意図されてる。こんな手を打つのは陛下としか思えない。陛下がイウリィを天導教に渡したなら、イウリィの安全は絶対に保たれているわ。実際、陛下には天導教の内部と通じている節もあるし」
「……どうして?」
それだけの言葉を絞り出すのが精一杯だった。言葉少なな疑いに、ナデシコは苦々しさを隠さない表情で断言した。
「陛下はあなたにイウリィが必要なことを知っている。だから、陛下は何があってもイウリィを切り捨てられない。イウリィの安全が確保できていないのなら、こんなことはできない」
証拠とは到底言えない感情論だった。けれど首謀者がクエリなら、ナデシコの主張は疑う余地もない確信に変わってしまう。
クエリの愛情をネオンは知っている。父殺しという禁忌を犯し、玉座の重圧を背負ってでも守り続けてくれている姉がいまさら裏切ってくるなんて、考えるのも馬鹿馬鹿しい。
ネオンはゆっくりと全身の力を抜いていく。脱力と一緒に吐き出した声には恨み節が詰まっていた。
「……姉上こそ、本物の悪魔だ」
「ええ、まったくよ」
意図を説明せず、向けられる信頼を担保にするやり口。解読を委ねられたナデシコにはより真に迫った感覚があるようで、ネオンの呟きにもしみじみと頷く。
もう問題ないと判断したのか、ナデシコの重みが外れた。ネオンも立ちあがろうとした矢先、聞こえてきたのは内からの声。
『おい、ネオン。しばらく主導権を寄越せ』
『……理由は?』
立ち上がり、ナデシコたちに背中を向けて会話に集中する。
王冠を預かって以来、フレアからこんな要求を受けたことはなかった。そのつもりになれば身体を使わせられると直感していた一方で、お互いに触れてこなかった暗黙の了解。そこを踏み越えたフレアは、静けさと重力が同居した真剣な声で伝える。
『お前の嫁に任せたいことがある。俺が直接伝えないと意味がない』
『──わかった。ちゃんと返してよ?』
ネオンの身体がフレアの意思に渡る。主体の移り変わりは想像よりもずっと滑らかだった。
突然に背を向けたネオンを気にかけていたナデシコは、ネオンの動きにすぐ反応して声をかけようと口を開き。
「さて、と。こうして話すのは初めてだな、竜姫」
「…………そういうことするなら先に言いなさいよ!」
「ぐっ!?」
動揺のまま頭をはたく。ナデシコは口ぶりから、今話している相手はフレアなのだとすぐさま察知して、事情を知らないエンラとオドゥへの説明を優先した。
「師匠、お父さん。とりあえず今は黙って聞いてて。詳しいことは後で本人に聞いて」
「あ? いきなり何言ってんだ、お前──」
「いいから! それで、ハルピュイアの王、暁のフレアがどんなご用?」
「理解が早くて助かる」
頷くフレアに、さしものオドゥも唖然に取られ、エンラはすぐさま警戒の目を向ける。フレアは向けられる警戒に、視線を合わせて答えた。
「危害を加えるつもりはないし、できない。俺は竜姫に頼みたいことがあるから身体を借りただけだ」
「あたしに?」
「ああ。俺の代わりにハルピュイアに合図を送ってほしい。幸いエダが──次の王が現状を知っているからな。俺のエーテルを偽装すれば、俺が呼んだと理解するだろう」
フレアが目線を送れば、エンラも警戒を緩めて臨戦態勢を解く。それでも尋ねる声は威圧に満ちたものだった。
「何があってそんな状況になっているかはわからないけれど──どうしてナデシコを介するんだい? 君がネオンの身体を借りている間にやればいいだろう?」
「いいや、無理だ。こいつの身体は特殊すぎる」
「特殊?」
「体内エーテルのすべてが身体強化に回されている。俺が王冠の力を渡してもすぐ変換されるほど無意識に。大方、幼少のうちに暗示でもかけられたんだろう。そうでもないと説明がつかないほどに完璧で、だから無理に崩すとこいつが戦えなくなる──うるさい、事実だから黙ってろ。自覚しようとするな。無意識だから成り立っているんだ、お前の身体は」
後半はネオンと話しているのだろう。フレアの返しだけでも、ネオンが自らの行いを把握していなかったのは明らかだった。
ナデシコは顔を覆って、これまで目にしてきたネオンの身体機能の数々を思い出す。――フレアの主張は、言われてみれば納得しかなかった。ネオンの鋭すぎる五感や、下手な竜をしのぐ身体能力は常に発揮されていた。意識して同じことをしようと思ってもどこかで必ず集中が途切れるが、呼吸や手足を動かすように行っていたのなら実現できていたのも不思議ではない。フレアが言うとおり、無理にバランスを崩せばネオンの力は成り立たなくなるだろう。
気に掛かるのは、一体誰がそんな仕掛けを施したのかということ。暗示で武器を与えるという発想ができるほどに魔術へ深い造詣を持つ、幼いネオンのそばにいた人物。順当に考えると疑わしいのはウルミアとミラリスだが、どこかに違和感がある。
学者肌の魔術師なら汎用性の消失を嫌うだろう。ネオンの体質を有用だと考えるのは、自ら前線に出るようなタイプだ。
――大剣を振るう無詠唱者。天導教の悪魔祓い。ナデシコはアンナリーゼの姿を連想すると、首を横に振った。
「……あなたが呼びかけるということは、天導教を崩すつもりだと判断しても?」
「あれらがのさばっていてはいつまでも王冠を戻せん。ハルピュイアにも必要な戦だ」
フレアは嘆息とともに肯定する。ネオンに敗北した彼だから、ハルピュイアの王冠を人間に預けている現状が最も安全だと判断するしかないのだろう。
「王冠は俺たちの誇りだ。天使だかなんだか知らないが、そんなもののために使わせてたまるか」
「そうね、その意見にはあたしも同意。それじゃ、あなたのエーテルを見せてちょうだい」
ナデシコの求めにフレアは頷いて、近付いてくる。
フレアとネオンの性格の差を示すように、今の目つきは普段よりも鋭い。ナデシコはその顔がだんだん近寄ってくるのを見ながら――フレア自身が告げた問題がある中で、どうやって自らの力を見せようとしているのかという疑問に思い至る。
ふと浮かんだ疑問の答えを探すためにナデシコの思考は勝手に動き出して。考察に気を取られて身体を動かせなくなっていた不意をつき、フレアはナデシコの顎を持ち上げた。
「……ちょっと待ってフレア。あなた何をしでかすつもり――んぅ!?」
強引に唇を奪われる。ネオンの身体ではエーテルを外に出せないなら、体内のものをそのまま渡してしまえ、という考えだったのだろう。事実、ナデシコなら解析できるだけの明度で力が伝わり、フレアは満足げに頷いた。
「よし。これならこいつの身体でも問題ないか」
「っ、あ、あんた、いきなり何を――!」
「見ての通り、ただの接吻だが。どうせこいつとはつがいなんだ、構わんだろう?」
「構うに決まってるでしょうが!?」
反射的に攻撃しなかったのはあまりにも動揺しすぎていたせいだろう。いくら中身がフレアだとわかっていても、ネオンの外見に惑わされた部分もあったのかもしれない。
蹲って大声で抗議するナデシコの姿に、フレアは本気で困惑するように首を傾げる。そのさなか、フレアがひょいと身を翻せば、地面にはオドゥが飛ばした大量の暗器が突き刺さった。
「っ、の、てめえ……!」
「……お前たちの反応がよくわからん。面倒だし、後は任せた」
気まますぎる呟きの通り、主導権をネオンに戻したのだろう。雰囲気が瞬く間に切り替わって、ネオンは耳を赤くしながら蒼白な表情で同居人を罵った。
「このバカ……! バカ鳥、情緒も何もない鈍感バカ鳥……!」
「……おい、王子様」
冷え切ったオドゥの声に、ネオンはびくりと身体を震わせる。
フレアの暴挙にすぐさま襲いかかった育ての父親と、今も言葉を失って身じろぎすらできていない実の父親。対照的ながら動揺が明らかな二人の様子に、ネオンは考えるより先に言葉を発していた。
「責任は、必ず取ります……!」
「うん……そうだ、そうだね、うん。君とナデシコを結婚させたのは、僕の意思なんだから……」
「自分で言ってて落ち込むんじゃねえよ、ヘタレ野郎。ナデシコ、解析しながらでいいから聞け」
オドゥの呼びかけに我を取り戻したナデシコは、頷いて肯定を返す。続けられたオドゥの説明はナデシコの考察を裏付けるものだった。
「今の状況だが、おおむねナデシコの予想で当たりだ。あの女王陛下の仕込みのおかげで、こうやって竜帝が堂々と侵入しても問題なくなった」
「……まさか、宣戦布告でも?」
「ああ、そろそろ公的に伝わっている頃だろう。こいつとの繋がりを使ったことで、連盟は開戦に同調するしかなくなった。それと、人魚のお嬢ちゃんについてもナデシコが考えた通り」
イウリィへの言及に、ネオンの表情が硬く強張る。それでも動揺を抑え込むと、頷いて続きを促した。オドゥは淡々と、構築された思惑を伝えていく。
「女王陛下に言わせれば、教皇があの子を取り戻せば、確実になにがしかの行動に打って出る、だそうだ。向こうの具体的な目的までは読めなかったそうだが、『何があっても、どんな状況でも約束を果たしてくれる子に任せたから大丈夫』だとさ」
クエリの言葉を引用するオドゥの声にも、若干の呆れがこもっていた。その呆れは合理性の欠片もない信頼に向かっているのか、あるいはナデシコと同じように、向けられる信頼を担保にした手法に向いているのか。
ネオンも同意に頷いて、深く呼吸を整える。ナデシコの声が飛び込んできたのはその矢先だった。
「師匠。それ、教皇がイウリィを求めていたってことよね?」
「ああ、何か引っかかりでも?」
「……嫌な予感がする」
ぽつりと呟く。フレアのエーテルの解析は大半が終了した。ナデシコは横目でネオンの様子を伺いつつ、半ば独り言の思考整理も交えてドラキュリア派から聞き出した情報を言語化していった。
「天導教が悪魔を封印しているのは、王冠の力を使って天使を作るため。ドラキュリア派には、竜はずっと昔に天導教が降臨させた天使の末裔という話が伝わっている。ドラキュリア派の話が正しいのなら、天導教は天使を降臨させた過去があるのに、今も目的を達成できていない」
「……僕たちが天導教に由来するものだと?」
「発端は。けれどあたしたちの祖になった天使は、天導教の意思を否定した。だから天導教は竜を敵視しつつも、一つの種族と見なしている。――そう、ここ。ここなの。イウリィと何か繋がりそうなんだけど、なかなか形が見えてこなくて」
違和感があるのに掴めない。不穏な答えの気配があるのに中身が見えない。ナデシコは歯がゆさともどかしさに、その場をぐるぐると回り始める。
あと少しの手がかりか発想の転換があれば届きそうな真相。そこへ、かつて天導教に所属していたオドゥが一足先にたどり着いたのはある種、当然と言えるのかもしれない。
「――エンラ、飛ぶぞ」
「へ、師匠?」
「オドゥさん?」
オドゥはナデシコとネオンの腕を掴んで、エンラのそばまで連れて行く。確信めいた表情には、嫌悪と少しの焦りが浮かんでいた。その様子に、エンラは身体を持ち上げて翼を起こす。
「総本山まで?」
「ああ。たぶんナデシコの予感は当たりだ。ろくなことにならん。それと、そこの聖職者!」
「ひぇっ!?」
森の茂みに暗器が飛ぶ。呼びかけと攻撃に悲鳴を上げて姿を見せたのは金髪の少女。ナデシコとネオンも顔を知る、ヴァーチェ・ドラキュリア。ヴァーチェは怯えきった表情でオドゥに尋ねた。
「い、いつから気付いて……」
「最初からに決まってるだろ。で、ドラキュリア派はどう動く?」
端的な問いかけ。その実は、ここで敵対して処分されるか、天導教を裏切るかの二択しか許されていない状況。
ヴァーチェは深く肩を落として、はっきりと断言した。
「わたくしは元よりあなた方につく所存。でなければ、わざわざ近付いてきませんわ」
「よし。握っている情報は全部出せ。それと総本山での案内役もだ」
「人使いが荒い隠密ですわね!?」
「とっくの昔に引退済みだ!」
ヴァーチェは食ってかかるように非難しつつも、自らの足でやってくる。四人の目前にまでやってくると、衣の裾を掴んで優美に頭を下げた。
「とはいえご存じの通り、わたくしたちドラキュリア派は派閥の体をなしていません。主流派の陰謀にはまったく関与できておりませんので、そこはご承知を」
「自覚してるだけ上等だ。ほら、行くぞエンラ!」
「わかった。……いや、少しだけ待ってくれ」
「あ?」
エンラはゆっくりと目を閉じて、意を決するように深く息をすると、ナデシコを見つめた。
じっと向けられる父の瞳に、ナデシコは思わず一歩下がりながらも、正面から受け止める。
「お父さん?」
「ナデシコ。……君も飛べる。いつか、絶対に」
それ以上、エンラは何も言わなかった。
竜になれない娘に向けた、言葉足らずの肯定。思ってもみなかった言葉に不意をつかれるナデシコの背を、ネオンの腕が支える。
首筋の鱗に触れる。ナデシコはネオンの支えを頼りに、ただ頷いた。




