天使名ドラゴン
「おじさま、この本くださる? ――ええ、そう。妹にあげるの。そろそろ文字を覚えてきたから」
山を下りて二つ目に到着した街で、ナデシコはそんなやりとりを交えながら天導教が発行している絵本を購入して、雑踏に紛れる。オドゥの真似をして育ったからだろう。ナデシコ自身、シュトラルの街を歩くようになるまで気づいていなかったが、人混みの中で気配を消すのは得意だった。
衣服で鱗を隠すだけで、誰一人としてナデシコに違和感を覚えていない。今のところは、敵対する国に侵入しているさなかだと思えないほどに平穏だ。
「おかえり。問題なかった?」
「ええ、大丈夫よ。気取られてる様子はないわ」
窓際に座って人の流れを見つめるネオンに答えながら、ナデシコはベッドに上がって絵本をめくる。
一度目も二度目も、堂々としていれば宿を取るのも訳はなかった。少女二人の移動も、自分たちは義理の姉妹で、父に会うために旅をしているのだと言えば宿の人間は怪しみもしなかった。それどころか、頑張りなさいねとねぎらいまでかけられている。救済の教えが生まれたときから日常にあるから、なのだろうか。天導教の領域に到着してからというもの、純粋で、いっそ強すぎるほどの善性と余裕をナデシコはひしひしと感じていた。
絵本にざっと目を通す。すでに手に入れていた別の絵本を取り出して同じように読み、それから先ほど購入した絵本をもう一度はじめから読み直した。
ネオンはナデシコが出す結論を待って、口を閉ざしている。ナデシコは二冊の絵本を閉じて、吐息を落とした。
「師匠が言っていた通りね。派閥は聖職者にしか関係ない話みたい」
異なる街で流通していた発行元の違う絵本。二冊の内容がほとんど変わらない事実は、オドゥの証言を裏付けている。納得するナデシコに、ネオンは首を傾げて問いかけた。
「二冊だけで断言できるものなのかい?」
「師匠がそう言っていたからってのもあるけれど、おおむねは。同じ宗教が違う解釈を唱えていれば、子供向けの絵本でも中身は違ってくるはずだもの」
ナデシコの説明に、ネオンはなるほどとうなずいた。もとより疑っていたわけではないが、実際に目の当たりにしたことでオドゥの言葉もより積極的に受け入れられる。天導教の宗派はあくまで方針の違いであって目指す終着点は同じということも、そんな中ですら、今から交渉に向かうドラキュリア派がとんでもない変人たちだと断言されていたことも。
「変な奴ら、ねえ……」
ナデシコが嘆息まじりに呟けば、ネオンも苦笑していた。一体どんな反応が待ち構えているんだか――と、ナデシコは重くなる気持ちに引きずられるようにベッドへ沈む身体に鞭打って立ち上がり、腰に両手を当てた。表情はいかにも自信たっぷりと、気負いのないように。
「さてネオン、準備はいい?」
「もちろんいつでも。君のことは、私が絶対に守ってみせるよ」
「ええ。頼りにしてるわ」
約束の時間にはまだ遠いが、出遅れて会話の主導権を握られるよりよっぽど良い。二人はそう考えて、ドラキュリア派との密談の場に向かい――同じように考えて二人より早く到着していたらしき、金髪の少女に出会った。
「あら。ここを知っているということは、例の方かしら? 聞いていたより一人多いようだけれど」
暇を持て余していたのか、少女の前には茶器とお菓子が広がっていた。少女のツンと澄ました双眸は、ナデシコともまた違う勝ち気さを漂わせている。ナデシコが周囲への反骨精神と生来の意地っ張りで勝ち気に振る舞うのなら、少女は生来の性根がそもそも勝ち気なような。
ソファに沈む少女が件のドラキュリア派なのだろうが、まだ明言されていない。ナデシコは言葉を慎重に選びながら問いかけた。
「出発前に事情が変わったの。そちらこそ、二人少ないみたいね?」
「おじいとおばあはずいぶん前から腰を悪くしてしまって、長旅ができませんの。というわけで僭越ながら、このヴァーチェ・ドラキュリアが天導教ドラキュリア派を代表して参りましたわ」
立ち上がり、お手本のように優美なお辞儀。ヴァーチェはすぐにソファへ戻ると、ナデシコとネオンにも対面に座るようにジェスチャーで促した。
ヴァーチェは余裕たっぷりに構えつつも、探るような目つきで尋ねてくる。
「さて。わたくしどもは竜と対話する機会をいただけると聞いて、この場を設けたわけですが――どちらが?」
「この通り、あたしよ」
ナデシコは求められるがまま、隠していた玻璃の鱗を露わにする。その瞬間、ヴァーチェの瞳が見開かれる。喉から枯れるように絞り出されたのは、切実な祈りの声。
「あ、ああ……我らが天使よ――」
ヴァーチェの身体と声は歓喜に打ち震え、凜としていた表情は目尻が垂れてうっとりと恍惚に溶けている。異様とも思える姿にネオンはすぐさま警戒を向けて、ヴァーチェが程なく落ち着きを取り戻すと、すぐに平穏な少女の顔へ戻った。見ている端からでは、上着を羽織るのと同じような調子で。
ナデシコはまばたきする間に何度も切り替わる二人の雰囲気を見やりながら、ヴァーチェには聞こえないように深い息を落とす。ヴァーチェはただ興奮で我を失っただけらしいが、ネオンの意図的な変貌はかなり心臓に悪かった。クエリが垣間見せる感情の断絶よりは遙かにマシだったものの、より近しい存在が同じような圧を見せたからだろう。
この振る舞いが、力ではなく血縁で支配者の役割を負う王族だから身についたのか。それともクエリと似たもの姉妹だからだというべきなのか。ふとした疑問に気を取られかけたナデシコは思考回路を戻して、ヴァーチェに尋ねた。
「あたしは天導教のことは知らないに等しい。けれど、神ではなく天使に祈るのはいささか不思議ね?」
ナデシコが手に入れた絵本では、「神」が何度も讃えられていた。神の教えこそ、人を救う正しい道なのだ――と子供にわかりやすく、柔らかい言葉で、楽しめる寓話としても仕立て上げて。
二冊とはいえ天導教の教えに触れたナデシコからすれば、確かに感じる引っかかり。反応や言葉尻から違和感の正体を掴もうとした質問に対して、ヴァーチェはあっさりと答えを告げた。
「そうですわね。ええ、外のお方ならそう感じるのでしょう。けれどわたくしたちにとって、神は天にあらせられるもの。わたくしたちと救済への道を歩み、拓き、やがて共に楽園へ辿り着くのは天使なのですから」
「……天使」
天使。言葉は知っている。知っているけれど、ヴァーチェが語るこれは違う。ナデシコはすぐさま直感して、知識へ彫り込む。ヴァーチェは生来の勝ち気な印象はそのままに、それでいて両指を絡め合わせて目を伏した姿はまさに聖職者なのだと思わせる空気をまとって、説く。
「ええ、ええ。竜姫ナデシコ、あなたの前でわたくしが隠し立てすることは何もありません。ドラキュリア派が伝えてきた在りし日の記録は、今まさにこの瞬間のためにあったのだから」
古くから続く天導教の異端。その末裔は小さな唇で、彼女たちドラキュリア派の深奥を開示した。
「竜とは天使に連なるもの。遠い遠い、年月が定かでなくなるほどの昔に、ドラキュリア派の祖を導いた天使ドラゴンの裔なのです――」




