第二話 天才小学生
藤野玲音が五歳の時に前世の記憶を取り戻してから、まもなく退院した。
家に帰ってから、記憶が混濁して、落ち着くまで大変だった。
ある日の朝。
「玲音、ごはんよー」
母がいつものように呼んでいる。
「いま、いくー」
ごはんをいつもと変わらず口に運ぶ。
「玲音、どうしたの?」
「え、なに?」
「涙が、、、」
「うそ!?」
「ほんとだ」
玲音にとっては、いつもと変わらない当たり前の朝ごはん。
しかし、健二にとっては違った。
25歳に声を失い、ごはんが食べられない体になった。
それから、死ぬまで胃瘻から栄養を取る毎日だった。
好きだった寿司も、オムライスも、カレーも、何も食べられず、その生涯を終えた。
健二にとって、40年振りの『普通のごはん』だったからだ。
そして、半年が経った。
前世の記憶。
それは玲音にとって、便利なものでもあり、恐ろしいものでもあった。
藤野健二。
生まれつき難病を抱え、病院の中で人生の大半を過ごした男。
七十歳を迎える前に死んだ。
その人生の記憶が、玲音の頭の中にある。
けれど。
だからといって、玲音自身が七十歳の大人になったわけではない。
「お母さーん!」
「どうしたの?」
「今日、一緒に寝て!」
「ふふ、いいわよ」
「やった!」
玲音は母親に飛びついた。
前世の健二なら、こんなことはしなかった。
七十歳近くまで生きた大人だったのだから当然だ。
だが、今の玲音は五歳。
頭の中に大人の記憶があっても、心まで大人になったわけではない。
怖いものは怖い。
寂しい時は寂しい。
嬉しい時は思い切り喜ぶ。
そして――
「お父さん、今日早く帰ってきて!」
「努力するよ」
「絶対?」
「絶対とは言えないかな」
「むー……」
頬を膨らませる。
そんな自分を、玲音は少し不思議に思うことがあった。
前世の記憶が戻る前と、性格がほとんど変わっていない。
違うのは、頭の中にもう一人分の人生があることだけ。
だから。
玲音は今日も普通の五歳児だった。
ただし。
勉強を始めるまでは。
「玲音、これ分かる?」
母親が問題集を開いた。
小学校一年生向けの算数。
「うん」
「じゃあ、これ」
「これも分かる」
「……これは?」
「分かるよ」
「…………」
母親がページをめくる。
玲音は答える。
またページをめくる。
また答える。
母親の顔が、少しずつ変わっていく。
「玲音」
「なに?」
「本当に初めて見る問題?」
「うん」
「……どうして分かるの?」
玲音は首を傾げた。
「だって、簡単だから」
「……」
母親が黙り込む。
玲音は問題集を見る。
確かに簡単だった。
しかし。
「簡単だからって、そんな顔しなくてもいいじゃん」
玲音は母親の顔を見て笑った。
「お母さん、変なの」
「あなたの方が変なのよ」
「えー?」
玲音は笑った。
勉強は簡単だった。
あまりにも簡単だった。
だが。
玲音自身は、自分が天才だとは思っていない。
前世の記憶があるからだ。
「昔の僕は、もっと難しいことを知ってたから」
玲音はそう考えていた。
健二として生きた五十年近い人生。
大人として得た知識。
ただし、健二は天才ではなかった。
だから、何でも知っているわけではない。
知らないことも多い。
それでも。
五歳児として見れば、圧倒的だった。
玲音は幼稚園へ通っていた。
だが。
「玲音くん、これ一緒にやろう!」
「うん!」
友達と遊ぶことは好きだった。
鬼ごっこ。
積み木。
お絵描き。
くだらないことで笑う。
玲音は、そういう時間が大好きだった。
「玲音くん、足速い!」
「そう?」
「鬼やって!」
「えー!」
嫌そうな顔をする。
だが。
「お願い!」
「……一回だけね」
結局、玲音は鬼になる。
そして全力で走る。
「待てー!」
「きゃー!」
笑い声が響く。
その時の玲音は、前世のことなど忘れていた。
五歳の男の子。
ただ、それだけだった。
だからこそ。
帰宅してから机に向かうと、余計に違和感があった。
「……簡単すぎる」
算数。
国語。
理科。
まだ幼児向けの内容だから当然なのだが。
玲音は問題を解きながら、退屈そうに頬杖をついた。
「……つまんない」
「勉強が?」
母親が聞く。
「うん」
「じゃあ、やめる?」
「……それは嫌」
「どうして?」
玲音は少し考える。
「分かるようになるのは楽しいから」
「じゃあ、難しい問題をやってみる?」
「やる!」
目を輝かせる。
その瞬間。
母親は思った。
――やっぱりこの子は、勉強が好きなんだ。
しかし。
数十分後。
「できた!」
玲音は満面の笑みを浮かべていた。
難しい問題を解けたことが嬉しい。
褒めてもらえるのが嬉しい。
「すごい?」
「すごいわよ」
「じゃあ、もっと褒めて!」
「はいはい。すごいすごい」
「もっと!」
「もう十分でしょう」
「えー!」
玲音は頬を膨らませた。
結局。
どれだけ頭が良くても。
どれだけ前世の記憶があっても。
褒められたい。
甘えたい。
両親に構ってほしい。
玲音は、普通の子供だった。
小学校へ上がる頃。
玲音は、すでに周囲との差を感じ始めていた。
授業を受ける。
先生が説明する。
そして。
「分かった人?」
玲音は手を挙げる。
「はい!」
「玲音くん」
「答えは○○です」
「正解」
また正解。
次も正解。
その次も。
やがて。
授業中、玲音はぼんやり窓の外を見るようになった。
「……暇だな」
前世の記憶があるからではない。
純粋に。
授業の内容が簡単すぎるのだ。
だが、休み時間になると。
「玲音、遊ぼう!」
「うん!」
すぐに元気になる。
「鬼ごっこ!」
「やろう!」
「玲音鬼ね!」
「えぇー!?」
大声で笑う。
先生から見れば、玲音は少し勉強が得意な普通の少年だった。
しかし。
学年が上がるにつれて。
差は広がっていった。
二年。
三年。
「……これ、もう全部知ってる」
玲音は教科書を閉じた。
小学三年生の頃には、義務教育範囲の学習をほぼ終えてしまっていた。
それでも。
「学校やめたい」
と言ったわけではない。
「友達と遊ぶのは楽しいから」
玲音にとって学校は、勉強する場所だけではない。
友達と遊ぶ場所でもある。
だから。
「勉強だけ、別にしたい」
両親にそう相談した。
「学校をやめたいわけじゃないの?」
「ううん」
玲音は首を振る。
「みんなと遊びたい」
「じゃあ、どうして?」
「授業が簡単だから」
父親と母親は顔を見合わせた。
玲音は少し不安そうにする。
「……ダメ?」
「いや」
父親が笑った。
「ダメじゃない」
「本当?」
「玲音がそうしたいなら、やってみよう」
「やった!」
玲音は嬉しそうに笑った。
こうして。
玲音は通信教育を中心に学ぶことになった。
学校では友達と遊ぶ。
家では自分のペースで勉強する。
玲音にとって、それが一番楽しい生活だった。
そして三年生の終わり。
「……終わった」
玲音は机の上に並べた教材を見る。
義務教育範囲。
すべて終了。
その後も勉強を続け。
中学。
高校。
大学。
どんどん先へ進んでいく。
そしてある日。
模試の結果が届いた。
「……A判定」
父親が画面を見つめる。
「日本最難関大学で?」
「うん」
玲音は頷いた。
「すごいな……」
父親は素直に驚いている。
玲音も嬉しかった。
「僕、すごい?」
「すごいぞ」
「えへへ」
玲音は笑った。
褒められるのは、やっぱり嬉しい。
けれど。
その夜。
玲音は一人でベッドに横になりながら考えていた。
――四ノ宮零士。
百五十年前の天才。
自分の前世、藤野健二が最期に会った男。
父親から聞いた話では、零士は中学を卒業した後、世界最高峰の大学へ飛び級で進学したという。
「……僕も」
玲音は天井を見る。
「もっとできるのかな」
前世の健二は、病気のせいで何もできなかった。
学校へ行くことも。
自由に走ることも。
好きな場所へ行くことも。
普通の人なら当たり前にできることが、できなかった。
だから玲音は思った。
今の自分には、健康な身体がある。
自由に走れる。
勉強もできる。
友達とも遊べる。
なら。
「……頑張ってみよう」
玲音は小さな拳を握った。
そして。
もう一つ。
ずっと隠していたことがある。
前世の記憶。
両親には、まだ話していない。
「……言わなきゃ」
玲音は布団の中で呟いた。
怖かった。
両親に嫌われるかもしれない。
変な子だと思われるかもしれない。
でも。
「僕は、藤野玲音だから」
前世が健二でも。
今の自分は玲音。
そう思っている。
だからこそ。
自分のことを、両親には知ってほしかった。
「明日……話そう」
玲音は目を閉じた。
五歳の時に蘇った、もう一つの人生。
それを初めて両親に打ち明ける。
その決意が。
この家族の運命を、大きく変えることになる
声を失うより食を失う悲しみは大きい




