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零士が五十歳になった頃。
その日は、何の前触れもなく訪れた。
「……健二に会いたい」
執務室で一人、零士は呟いた。
五十年という人生の中で、零士は数え切れないほどのものを手に入れてきた。
富。
名声。
権力。
そして、異相観測装置によって得られた、十を超える並行世界での人生経験。
別の世界の自分を観測し。
時には、その人生を追体験し。
そこで得た知識や技術を、こちらの世界へ持ち帰った。
だが。
どれだけ多くの世界を知っても。
どれだけ多くの自分を見ても。
あの男だけは忘れられなかった。
「そうか……」
零士はふと気づく。
「この世界にも、健二がいる可能性があるのか」
今まで考えたこともなかった。
自分の世界に健二はいなかった。
だが、異相観測によって別の可能性が無数に存在することは、すでに証明されている。
ならば。
この世界にも――
「藤野健二」
零士は、その名前を検索した。
同い年。
男性。
日本在住。
条件を絞り込む。
そして。
「……いた」
一人の男が表示された。
藤野健二。
零士と同じ五十歳。
住所。
職歴。
家族構成。
そして――
「病院?」
零士の眉が動く。
調べれば調べるほど、嫌な情報が出てきた。
難病。
治療法は確立されていない。
病状は進行しており、長期的な回復は見込めない。
「……馬鹿な」
零士はすぐに立ち上がった。
そして、その病院へ向かった。
正体を明かすわけにはいかない。
零士自身が直接、治療に関わるためには資格が必要だった。
しかし、彼には十を超える世界で得た医学知識がある。
遺伝子学。
再生医療。
ナノマシン。
数多くの世界で培った知識。
それらを組み合わせれば、助けられるかもしれない。
零士は身分を隠し、医師として病院へ入った。
そして。
病室の扉を開けた。
「……」
そこに、一人の男が眠っていた。
痩せ細った身体。
閉じられた瞼。
規則正しく鳴る医療機器。
人工呼吸器。
点滴。
心拍を示すモニター。
零士は、その男を見つめた。
「……健二」
返事はない。
「私だ」
もちろん、返事はない。
零士はベッドの脇まで歩いた。
顔を見る。
五十歳になった男の顔。
記憶の中の健二とは違う。
当然だ。
あの健二は、この世界の人間ではない。
だが、零士はその事実を忘れていた。
いや。
正確には――
忘れたのではない。
精神同調によって、零士の中で「健二」という存在の境界そのものが曖昧になっていた。
別世界で出会った健二。
別の世界で出会った健二。
また別の世界で出会った健二。
十を超える世界を渡る中で、零士は何人もの「藤野健二」を見てきた。
優しい健二。
臆病な健二。
豪快な健二。
冷静な健二。
中には零士と敵対する健二すらいた。
それでも。
零士の中では、すべてが同じ「健二」だった。
だから今。
目の前の男も――
零士にとっては、あの健二だった。
「……どうして」
零士の声が震える。
「どうして私は……」
ベッドの横に座る。
「もっと早く来ていれば……」
拳を握る。
「もっと早く、君を見つけていれば……」
モニターが淡々と音を刻む。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
零士は男の手を握った。
冷たい。
「……すまない」
自分でも理由の分からない涙が、一滴落ちた。
「私が……遅すぎた」
本当なら。
この世界の藤野健二と、零士には何の関係もない。
幼馴染でもない。
友人でもない。
人生を共にしたわけでもない。
ただ同じ名前を持つ、同い年の男。
それだけだった。
だが零士には、そんなことはどうでもよかった。
「……健二」
零士は目を閉じる。
そして、ある技術を思い出した。
これまでの異相世界の中で学んだ技術。
人間の人格。
記憶。
思考パターン。
感情。
それらをデータ化し、保存する技術。
人格保存チップ。
もちろん、この世界ではまだ存在しない技術だった。
だが。
零士には作れる。
「……これなら」
零士は小型の装置を取り出した。
「いつか、また会える」
男の額に装置を当てる。
人格保存チップが起動する。
「健二」
返事はない。
それでも、零士は笑った。
「今度は……私が待つ」
保存処理が始まる。
「だから――」
零士は、眠る健二の手を握った。
「いつかまた会おう」
小さな電子音が鳴った。
そして。
人格保存チップのランプが点灯する。
零士は気づかない。
眠っているような健二の意識は。覚醒している事を。




