上級品の手配
「もう一度お願いします」
エレナが木剣を構え直すと、向かいに立つ近衛兵は少し困ったように笑った。
「まだやるのか?」
「はい。さっきよりは動けるようになってきました」
昼から始まった手合わせは、もう何戦目か分からない。
最初に相手をしてくれた近衛兵に何度も負け、それでも続けているうちに、訓練場には少しずつ人が増えていた。
仕事を終えたらしい近衛兵が二人、三人と顔を出し、今では壁際に十人近く集まっている。
「次は俺がやろうか」
「いや、お前じゃまだ早い。まず足の使い方を覚えさせた方がいい」
「それなら俺だろ。今の二戦、全部同じところで崩されてたぞ」
いつの間にか、見ている側までずいぶん熱心になっていた。
エレナも最初は教会の近衛兵に囲まれて少し緊張していたが、何度も剣を合わせるうちに慣れたらしい。負けるたびに相手へ質問し、言われたことを確かめるように足を動かしている。
「もう少し左足を早く出した方がいいですか?」
「ああ。ただ、先に腰が動いてる。踏み込むと分かるぞ」
「分かりました。ありがとうございます」
素直に頭を下げると、また構える。
相手の近衛兵も木剣を上げた。
「じゃあ来い」
「お願いします」
エレナが地面を蹴った。
何度も打ち合っているだけあって、最初よりは相手の動きについていけている。それでも正面から剣を合わせれば力の差は大きく、数合もしないうちに木剣を弾かれた。
エレナは慌てて後ろへ下がる。
近衛兵が追う。
そこからはほとんど一方的だった。
「右!」
見ていた誰かが声を上げる。
エレナが反応して身体をひねると、直前まで肩のあった場所を木剣が通った。
「今のはいいぞ!」
「ありがとうございます!」
「返事してる場合か!」
次の一撃を慌てて受ける。
周りから笑い声が起きた。
最初のうちは静かに見ていた近衛兵たちも、今ではすっかり楽しんでいるらしい。エレナが危ない動きをすれば声が飛び、少し上手く避ければ歓声が上がる。
本人も疲れているはずなのに、顔はそれほど嫌そうではなかった。
僕は訓練場の端に置かれた椅子に座り、その様子を眺めていた。
教会の近衛兵が薬を使っているなら、その強さを知っておきたいと思って始めてもらった手合わせだったが、もう十分に分かった。
少なくとも今のエレナよりはかなり強い。
それでも本人が続けると言うので、そのままにしてある。
僕がやるより、実際に戦う本人が慣れておいた方がいい。
「そこまで!」
木剣同士が強くぶつかり、エレナの腕が押し戻された。
近衛兵がそこで剣を止める。
「少し休め。腕が上がらなくなってるぞ」
「……はい」
さすがに反論しなかった。
エレナは息を切らしながら訓練場の端まで戻ってくると、僕の近くに置かれていた水差しを取った。
「疲れた?」
「疲れました」
一気に水を飲んでから、はっきり答える。
「もう終わる?」
エレナは少し考え、訓練場を見る。
「あと一回だけやります」
「そう」
「アルト様は止めないんですね」
「嫌なら止めるけど」
「嫌ではありません。悔しいので」
水差しを置くと、腕を軽く回した。
そのやり取りを聞いていた近衛兵の一人が笑う。
「いいな。じゃあ最後は俺が相手しよう」
「お願いします」
エレナはすぐに立ち上がった。
陽はすでにかなり傾いていた。
教会の建物が長い影を落とし、訓練場の隅から少しずつ暗くなっている。これで本当に最後にした方がよさそうだった。
今度の相手は、さっきまで横からいろいろと助言していた男だった。
二人が向かい合うと、周囲にいた近衛兵たちも自然と口を閉じる。
「始めるぞ」
「はい」
先に動いたのは近衛兵だった。
それまでの相手より踏み込みが速い。
エレナは受けずに横へ逃げた。追ってくる剣をもう一度避け、三撃目だけを木剣で受ける。
鈍い音が響いた。
押し負けながらも、今度は倒れなかった。
「いいぞ、そのまま!」
声が飛ぶ。
エレナは相手の剣を押し返し、すぐに距離を取った。
近衛兵が笑う。
「少しは慣れたな」
「何度も負けましたから」
「じゃあ、もう一回だ」
再び間合いが縮まる。
近衛兵が木剣を振り下ろし、エレナが避ける。さらに横から来た一撃を受け、後ろへ下がった。
追い込まれているのは変わらない。
ただ、エレナは先ほどまでより相手をよく見ていた。
近衛兵が大きく踏み込む。
その瞬間、地面を踏んだ靴がわずかに滑った。
ほんの少しだけ体勢が崩れる。
エレナが動いた。
振り下ろされる剣の内側へ入り、そのまま木剣を相手の脇腹へ当てる。
乾いた音がした。
一瞬、訓練場が静かになった。
エレナ自身も目を丸くしている。
「……入りました?」
次の瞬間、周りから大きな歓声が上がった。
「入ったぞ!」
「やったな!」
「最後の最後で一発返した!」
近衛兵たちが一斉に騒ぎ始める。
エレナは驚いた顔で周囲を見回し、それから遅れて嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「礼を言う相手が違うだろ!」
「いや、今のはちゃんと狙ってた。いい一撃だったぞ」
打たれた本人まで笑っている。
もっとも、勝ったわけではない。
相手が足を滑らせたところへ一撃入れただけだ。
それでも周りはまるで試合に勝ったような騒ぎになっていた。
エレナも否定する気はないらしく、近衛兵たちに囲まれながら、さっきの動きについて楽しそうに話している。
教会の鐘が鳴ったのは、それから少ししてからだった。
皆が顔を上げる。
すでに空は暗くなり始めていた。
「……これ、帰れますかね」
エレナが僕のところへ戻ってきて尋ねた。
「たぶん無理じゃない?」
領都までの道を考えれば、今から出るのは遅い。
その話を聞いた神父が、教会に泊まっていくよう勧めてくれた。
そこまではありがたかったのだが、なぜか話はそれだけでは終わらなかった。
夜になると、僕たちは教会の庭で火を囲んでいた。
鉄網の上では肉が焼かれ、その横では野菜の入った鍋が煮えている。
訓練場にいた近衛兵たちもほとんど残っていた。
エレナはその中心に座り、昼間に戦った相手から剣の使い方を聞いている。
「お前は受けるときに腕だけで止めようとする癖がある。あれだと力のある相手には押し切られるぞ」
「足も使うんですか?」
「そうだ。身体ごと受ける感じだな」
「なるほど……」
エレナは真剣に聞きながら、手に持っている肉を食べている。
別の近衛兵が横から口を挟むと、今度はそちらへ身体を向けた。
昼間に何度も叩きのめされた相手ばかりなのだが、すっかり馴染んでいた。
「楽しそうですね」
隣から声をかけられた。
神父だった。
「ええ。ずいぶん仲良くなったみたいです」
僕が答えると、神父もエレナたちの方を見る。
「うちの者たちも、あれほど熱心に聞いてもらえると嬉しいのでしょう」
たしかに、教える側も楽しそうだった。
神父は空いていた椅子へ腰を下ろした。
僕は網の上で焼かれている肉を見てから尋ねる。
「それにしても、ずいぶん本格的ですね」
「夕食を用意するだけでは、あの者たちが納得しませんでしたので」
「そうなんですか?」
「ええ。それに、教義にもあります。争いの後には火を囲み、ともに食事をするように、と」
僕は神父を見る。
「そんな教義まであるんですか?」
「ございますよ。互いに剣を向けた後ほど、同じ食卓につきなさいという教えです」
神父は何でもないことのように答えた。
言葉だけ聞けば、もっともらしい。
ただ、それを定めた人間を僕は知っている。
セラフィナなら、争った後に仲直りさせるところまでは真面目に考えたのだろう。そのうえで、どうせなら皆で肉を食べた方が楽しいくらいの理由で、教義にまで書き込んでいても不思議ではない。
本当に好き放題やっている。
そんなことを考えていると、神父がこちらを向いた。
「ところで、アルト様は最初から、あの薬をエレナさんに使うおつもりだったのですか?」
「はい」
「やはりそうでしたか」
神父は納得したように頷いた。
「町でも手に入るとは聞きましたが、何が混ざっているか分かりませんから。使うなら教会から直接仕入れたかったんです」
「それがよろしいでしょう」
神父はしばらく考えるように僕を見てから、静かに続けた。
「でしたら、上級品を用意いたしましょう」
思っていなかった返事だった。
「いいんですか?」
「ええ。本来であれば、もう少し慎重に判断するところなのですが」
神父は近衛兵たちの輪へ目を向ける。
エレナはちょうど、隣の近衛兵に何かを教わりながら、自分でも同じ動きを試しているところだった。
「今日一日、お二人の様子を見せていただきました。それならば、上級品をお渡ししても問題はないと思います」
「普通のものとは違うんですか?」
「効果が強い分、扱いも難しくなります。少し副作用がありますので、体調や魔力の状態を見ながら使わなければなりません。それに、流通しているものとは違い、十分な訓練を伴わなければ、かえって魔力を損なうこともございます」
それなら、誰にでも売るわけにはいかないのも分かる。
ノアが作った薬そのものは知っているが、僕が生きていた頃にもいくつか種類があった。今の教会がどの配合を上級品として扱っているのかまでは分からない。
「聖女様は、上級品については、扱うにふさわしい者にだけ渡すよう定めておられます」
神父はそう言ってから、穏やかに笑った。
「私の見る限り、お二人なら大丈夫でしょう」
「ありがとうございます」
僕は素直に礼を言った。
普通の薬を買うつもりで来ただけなので、上のものを用意してもらえるならありがたい。
「ただし、私の判断でお渡しできるのは最初の一か月分までです」
「一か月?」
「はい。十分な効果を得るには、およそ一年続けていただく必要があります。それ以降の分については、教会の認定を受けなければなりません」
「認定というのは?」
「実際に力を見る者がおります」
神父は少し楽しそうに言った。
「教会が認めた近衛兵の中でも、特に優れた者たちです。その者たちに、薬を使い続けるに足ると認めてもらう必要があります」
僕はもう一度、エレナを見る。
今は木の枝を剣代わりにして、近衛兵の一人から何か教わっていた。
「強いんですか?」
「かなり」
神父は即答した。
「今日ここにいた方たちよりも?」
「比べるのは少々気の毒ですね」
それなら、一か月後はちょうどいい。
薬を使ったエレナがどの程度変わるのかも見られるし、その後の相手としても不足はなさそうだった。
「分かりました。一か月後にまた来ます」
「私から話を通しておきましょう」
「いろいろとありがとうございます」
神父は穏やかに首を振った。
「こちらこそ。聖女様のことをこれほど話したのは久しぶりでした。私も楽しい時間を過ごせました」
そのとき、近衛兵たちの輪からエレナが抜けてきた。
両手に皿を持っている。
「アルト様、これ食べましたか?」
僕の前へ来ると、皿に載った肉を差し出した。
「まだだけど」
「おいしかったので持ってきました。神父様もどうぞ」
「ありがとうございます」
神父が一つ取る。
僕も肉を受け取った。
「向こうはもういいの?」
「まだ聞きたいことがあります。食べたら戻ります」
そう言いながら、エレナは自分の皿からも一つ口へ入れた。
さっきまで剣を握っていたときとは違い、ずいぶん嬉しそうな顔をしている。
こうして見ると、やっぱりかわいらしい。
「本当においしいですね」
「だから持ってきたんです」
エレナは満足そうに答えると、もう一枚肉を僕の皿へ載せた。
「これもどうぞ」
「ありがとう」
「はい」
自分の分を一つつまみながら、エレナはまた近衛兵たちのところへ戻っていった。




