エレナの薬
翌日の昼過ぎ、僕たちは屋敷に戻った。
馬車を降りると、使用人たちが荷物を受け取りに来る。僕も自分の部屋へ戻ろうと玄関へ向かったところで、後ろを歩いていたエレナに呼び止められた。
「アルト様。少しお願いがあるのですが」
「なに?」
振り返ると、エレナは何か言いにくそうにしていた。教会を出てからここまで特に変わった様子はなかったので、何の話なのか見当がつかない。
少し迷ってから、エレナが口を開いた。
「私も、あの薬を買いたいんです」
「薬?」
「昨日、近衛兵の方たちが使っていたものです」
そこでようやく話が分かった。
エレナは昨日、何度も近衛兵と手合わせをしている。最後には一撃入れるところまでいったが、それでも実力の差は十分に感じたのだろう。
「ただ、私のお金ではとても買えないので……貸していただけませんか」
「別に貸さなくていいよ」
「え?」
「君の分はもう頼んであるから」
エレナが目を瞬いた。
「私の分を、ですか?」
「うん。上級品を売ってもらえることになったから、それを買うことにした」
教会で神父と話したときに、その場で頼んでおいた。
普通の品より値段はかなり上がるが、どうせエレナに使わせるなら効果の高い方がいい。薬を買うためにもう一度教会まで行くのも面倒なので、話がまとまったところでそのまま決めた。
「……いつの間に」
エレナはしばらく驚いていたが、やがて思い出したように姿勢を正した。
「でも、本当に使わせていただいていいんでしょうか」
「使うために買ったんだからね」
「そうではなくて……」
エレナは少し困った顔をした。
「本当は、薬に頼らず鍛錬だけで強くなれればと思っていました。でも昨日戦ってみて、それでは足りないと分かりました。だから自分でも買おうと思ったんです」
「じゃあ、ちょうどよかったね」
「はい。それは、そうなんですが」
どうもまだ何か引っかかっているらしい。
「あの、上級品ということは、かなり高いんですよね?」
「三万フェル」
「三万フェル?」
エレナの声が大きくなった。
玄関へ入ろうとしていた使用人がこちらを見る。エレナはそれに気づいて口元を押さえ、少し声を落とした。
「本当に三万フェルですか?」
「そうだけど」
「そんなお金、私、どうしたらいいんですか」
「だから、返さなくていいよ」
「そういうわけにはいきません。三万フェルですよ?」
さっきまでより明らかに慌てている。
「私を身売りしても、そんな値段つきませんよ」
「身売りしなくていいから」
「分かっています。例えです」
「うん」
それなら問題ない。
そう思ったのだが、エレナの表情を見る限り、問題はなくなっていないらしい。
「まあ、僕も結構きつかったよ。自由に使える財産の七割くらいなくなったから」
少し笑いながら言うと、エレナが固まった。
「……七割?」
「うん」
「アルト様の財産の?」
「そう」
エレナはしばらく何も言わなかった。
貴族の子供とはいえ、自分の好きに動かせる金が無限にあるわけではない。これまで贈られたり、自由に使っていいと渡されたりした分を合わせても、三万フェルはかなり大きな額だった。
それにしても高い。
希少な材料を使ううえ、表向きには流通させられない薬なのだから、普通の商品より高くなるのは分かる。それでも、一人分でこれだけ取るのだから相当なものだ。
セラフィナめ。
あいつが作った仕組みがどこまで今の教会に残っているのかは知らないが、ずいぶん儲かっているに違いない。
本人なら悪びれもせず、その金を救貧院や孤児院に回していそうなのが余計に腹立たしい。
「どうして……」
エレナの声で意識を戻す。
「どうして、そこまでしていただけるんですか?」
「え?」
「だって、アルト様の財産でしょう。それを七割も使って、私のために……」
「当たり前じゃない?」
「当たり前なんですか?」
「君は僕の部下なんだよ。君の実力は僕の実力でしょう」
僕が前へ出て戦うつもりがない以上、エレナが強くなるのはそのまま僕にとって都合がいい。
必要なものを用意するのも、特に不思議なことではなかった。
「だから僕が払うのが普通だと思うけど」
「はあ……」
エレナが感心したような、それでいてよく分からないものを見るような顔をした。
しばらくすると、今度は少し困ったように眉を下げる。
「あの……金額が大きすぎて、どうしていいのか分かりません」
「どうしていいって?」
「何をすればお返しできるのかとか……」
「別に明らかじゃない?」
僕は首を傾げた。
「薬が届いたら毎日決められた量を飲んで、鍛錬すればいいよ。体調がおかしかったらやめること。それと、一応違法だから、使ってることは周りには言わないようにね」
「……それだけですか?」
「それだけ」
エレナはますます困った顔になった。
「なんだか、そこまで平然とされると、気にしている私の方がおかしいような気がしてきます」
「?」
何がおかしいのだろう。
必要だから買った。エレナはそれを使う。それで終わりだと思うのだが、どうやら本人にとってはそう簡単ではないらしい。
少し考えて、ようやく思い当たった。
「もしかして、遠慮してるの?」
「遠慮もしますよ。三万フェルですよ?」
「なんだ。そういうことか」
それなら話は簡単だった。
「かわいいなあ」
「え?」
僕は手を伸ばして、エレナの頭を撫でた。
予想していなかったのか、エレナは目を丸くする。
「ちょっと、アルト様?」
「遠慮しなくていいよ」
「いえ、その……そういう問題でしょうか」
エレナは困惑したままだったが、手を払うことはなかった。
結局、使用人たちが荷物を運び終えるまで、そのまま大人しく頭を撫でられていた。




