教会の薬
神父はしばらく僕の顔を見ていた。
教会が薬を流している。その理由も、おそらく教義にある。
そこまで話しても、神父は否定しなかった。認めもしなかったが、少なくとも僕の理解が大きく外れている様子ではない。
ただ、そのまま話を終えるつもりもないらしい。
「一つ、分からないことがあります」
神父は穏やかな口調のまま言った。
「そこまでお考えになっているのであれば、アルト様は何を知りたくてここへいらしたのでしょう。ご自分の推測を私に聞かせることが目的、という方には見えませんが」
「そうですね。僕が知りたいのは、むしろ逆なんです」
「逆、ですか?」
「教会がこの薬を認める理由は分かりました。でも、国が禁止した理由が分からないんです」
僕は机の上に置かれた薬の包みへ目を向けた。
町で調べられる範囲では、一応、経緯も追ってみた。第二代皇帝の時代に使用と流通が禁じられたことまでは分かったが、肝心の理由については、どの本にもほとんど書かれていなかった。
「この薬が禁止されたとき、教会でも教義を変えるかどうかは問題になったはずですよね」
「ええ」
「国が何の説明もせず、いきなり禁止したとも思えません。それなら、そのとき教会にも何か話があったんじゃないかと思ったんです」
神父はそこで小さく頷いた。
「それで私のところへ?」
「神父さんは歴史にも詳しいですし、さっきの話を聞いている限り、教会の中でもそれなりのお立場にいらした方ですよね。もしかしたら当時の議論もご存じなのではないかと」
少し踏み込んで聞いてみると、神父は困ったように笑った。
「買いかぶっていただくほどの者ではありませんよ。ですが、その件についてはご期待に沿えると思います」
「では、やはり?」
「ええ。当時の私はまだ若輩でしたが、教義を改めるべきか検討する場の末席におりました」
予想は当たっていたらしい。
神父は懐かしむように少し目を細めた。
「聖女様もいらっしゃいました。すでにご高齢で、病に苦しんでおられましたから、教会までお越しになることは少なくなっていた頃です。それでも、この件には自ら出席されました。よく覚えております」
僕も自然とセラフィナのことを思い出した。
年を取っても、セラフィナはあまり大人しくしていなかったらしい。
「それなら教えていただきたいんですが、ヴィクトル一世はどうしてこの薬を禁止したんですか?」
二代皇帝ヴィクトル一世。ヴィクトル・ラウゼン。
僕の死後、帝国を継いだ男だ。
「これはノアが作った薬のはずです。彼は若くして亡くなりましたが、この薬を完成させたときはかなり喜んでいました。生まれ持った魔力が少ないというだけで、やりたいことを諦める人間が減る、と」
あのときのノアが嬉しそうにしていたのは、今でもよく覚えている。
「そこまでご存じでしたか」
神父は感心した様子だった。
「おっしゃる通りです。この薬を作ったのはノア様です。当時は帝国でも広く使われておりました。しかし、ヴィクトル陛下は、その存在そのものに問題があるとお考えになりました」
「薬に害があったわけではないんですよね?」
「少なくとも、それが禁止の理由ではありません」
神父は一度言葉を切った。
「陛下がおっしゃったのは、この薬が広まれば、やがて飲まないことを選べなくなる、ということでした」
僕は少し眉を上げた。
「選べなくなる?」
「たとえば、戦う者が二人いたとします。一人が薬を使い、もう一人が使わなければ、当然、使った者の方が有利になるでしょう」
「そうですね」
「ならば、勝ちたい者は飲むしかありません。より強くなりたい者も飲む。周囲が皆使えば、本人が望まなくとも使わざるを得なくなる。陛下は、それを自由とはお考えにならなかったのです」
なるほど。
いかにもヴィクトルが言いそうなことだった。
「神から預かった身体へ手を加え続け、昨日より強く、明日はさらに強くと求めることを当然にしてしまえば、人は自分の身体のまま生きることを許されなくなる。陛下は、そのような社会は人を幸福にしないとお考えでした」
「ずいぶんヴィクトルらしいですね」
思わずそう口にすると、神父が少し不思議そうな顔をした。
「……本で読んだ印象です」
「なるほど」
納得したらしいので、そのままにしておく。
神父は話を続けた。
「ヴィクトル陛下は初代皇帝とは、国の進むべき方向についてかなり異なる考えをお持ちだったと言われています。初代皇帝が国を豊かにし、人のできることを増やしていったのに対して、陛下は、それについていけない者へ目を向けようとなさいました」
そこもよく覚えている。
僕の周囲にいた仲間たちは、基本的には明るく、国や自分たちが前へ進んでいくことを好んでいた。
ヴィクトルだけは少し違った。
別に前へ進まなくても、それで幸せならいいのではないか。全員が同じように強くなったり、豊かになったり、新しいものを求め続けたりする必要はない。
そんなことを真面目に話す男だった。
僕とは何度も意見がぶつかったし、一度話し始めると長かった。しかも本人は真剣なので、こちらが途中で切り上げようとしても、まだ話が終わっていないと言って続ける。
懐かしくはある。
ただ、個人的な印象を聞かれれば、真面目だけど暗くて話が長い、というところに落ち着く。話を聞きながら、結局何が言いたいんだろうと思ったことも一度や二度ではない。
「私、ヴィクトル陛下も好きです」
隣で黙って聞いていたエレナが、嬉しそうに口を開いた。
「一年しか皇帝ではありませんでしたけど、今の帝国が平和なのはヴィクトル陛下のおかげだという人も多いですし。父も、昔、一度だけ陛下にお会いしたことがあるそうです」
「お父上が?」
「はい。まだ若い頃だったそうですが、とても優しく声をかけていただいたと聞きました。それからずっと尊敬しているみたいで」
「そうでしたか」
神父も嬉しそうに頷いた。
「私も一度だけ、直接お話ししたことがあります。陛下がこちらの教会まで足を運ばれたことがありましてね。皇帝だからと威圧するようなところはまるでなく、穏やかに一人一人の話を聞いておられました」
「やっぱり、伝えられている通りの方だったんですね」
「ええ。とてもお優しい方でした」
エレナはすっかり感心している。
僕もヴィクトルの顔を思い出した。
確かに優しい男ではあった。真面目で、人の話をよく聞く。自分より弱い人間や、時代についていけない人間を見捨てることを嫌っていた。
その評価に異論はない。
ただ、僕が覚えているのは、会うたびに小難しい話を始めて、最後にはだいたい喧嘩になっていた姿の方だった。
「素晴らしい考え方ですけど、つまらないですね」
口にすると、エレナが勢いよくこちらを向いた。
「アルト様!」
「何?」
「今のお話を聞いて、どうしてそうなるんですか。先帝陛下ですよ」
「考え方が立派なのと、面白いかどうかは別じゃない?」
「だからといって、普通は口にしません」
怒られてしまった。
たしかに神父の前で言う必要はなかったかもしれない。
ところが神父は気を悪くした様子もなく、むしろ驚いた顔で僕を見ていた。
「……これは驚きました」
「すみません。失礼でしたね」
「いえ、そうではありません」
神父は首を振ると、なぜか感心したように笑った。
「まさか、聖女様とまったく同じことをおっしゃるとは」
「え?」
今度はエレナまで目を丸くした。
「先ほど申し上げた教義を改めるかどうかの議論です。ヴィクトル陛下のお考えが伝えられ、皆がどうするべきか意見を出していたとき、聖女様は最後まで黙って聞いておられました」
神父は当時を思い出すように、ゆっくりと続けた。
「そしてすべて聞き終えたあと、『素晴らしい考え方ですけど、つまらないですね』と」
僕は黙った。
神父は少し楽しそうだった。
「そのあとも、初代皇帝が生きていたなら、こんなつまらない政治は許さなかったでしょう、とおっしゃっていました。だから教義は変えない。そもそも自分がヴィクトル陛下の言うことを聞く筋合いもない、と」
病気でも元気そうで何よりだ。
「……そうなんですね」
「はい。あの場にいた者で、忘れている者はいないでしょう」
「すごいです、アルト様」
エレナがこちらを見る。
「聖女様とまったく同じことを考えるなんて」
「そうかな」
「そうですよ。私にはそんなふうに思いつきませんでした」
かなり感心しているらしい。
けれど、セラフィナと同じと言われるのは少し心外だった。セラフィナと一緒にされると、僕までずいぶん非常識な人間のように見えてくる。
神父は懐かしそうに笑い、エレナはまだ感心した様子で僕を見ていた。僕は何も言わず、すっかり冷めてしまった茶に口をつけた。




