村の教会
第二代皇帝が、なぜこの薬を禁止したのか。
その理由までは分からない。ただ、少なくとも僕が皇帝だった頃には普通に使われていたもので、ノア自身も危険なものを作ったつもりはなかったはずだ。
そんなことを考えていると、礼拝堂の奥から一人の神父がこちらへ歩いてきた。
五十歳くらいだろうか。白髪の混じった髪を短く整え、簡素な法衣を身につけている。僕たちに気づくと、穏やかな表情で頭を下げた。
「何か御用でしょうか」
「少し、この薬の件で聞きたいことがあります」
持ってきた小瓶を見せると、神父はそれを一度見ただけで、特に表情を変えなかった。
「分かりました。こちらへどうぞ」
案内されたのは、礼拝堂の脇からさらに奥へ入ったところにある小さな部屋だった。
壁際には古そうな本が並び、中央には四人ほどが座れる机が置かれている。窓は小さいが、よく掃除されていて部屋は明るかった。
神父が向かいへ座り、僕とエレナも並んで腰を下ろす。
「それで、その薬について、どのようなことを?」
「その前に一ついいですか」
「もちろんです」
教会へ来るまでに、エレナからこの神父について少し聞いていた。
困っている家があれば自分で足を運び、寄付された金についても使い道をきちんと記録しているらしい。その一方で、帝国や教会の歴史にも詳しく、町では清廉潔白で賢明な神父として知られているという。
実際、少し話しただけでも頭の回転が遅い人ではなさそうだった。
「あなたは清廉潔白で賢明な人だと聞いていましたけど、今少し話して、それは本当みたいだと分かりました」
神父がわずかに目を細めた。
「恐縮です」
「だから、単刀直入に聞きます」
僕は小瓶を机の中央へ置いた。
「この薬を流通させているのは、教会ですね?」
隣でエレナが勢いよくこちらを向いた。
「何を言い出すんですか」
かなり驚いたらしい。
「アルシア教は今や帝国の国教ですよ。そんなことをするはずがないじゃないですか」
「そうかな」
「そうです」
エレナは迷いなく答えた。
神父の方は否定しなかった。
僕の置いた小瓶へ一度視線を落とし、それから穏やかな口調で尋ねてくる。
「なぜ、そのように思われるのですか?」
「アルシア教は、国の法律より教義を優先するからです」
エレナがまた僕を見る。
今度は口を挟まなかった。
「アルシア教の教義には、薬物についての記述があります。中毒性があり、継続して使用することで身体に害を与えるものは、その流通も使用も決して許さない」
「よくご存じですね」
「続きもありますよね。中毒性がなく、身体に良い影響を与えるものならば、むしろ積極的に摂取すべきである、と」
前世でも、この辺りの教義は何度か耳にした。
僕自身が熱心に勉強していたわけではない。セラフィナが何かを始めるたびに教義を持ち出したので、長く一緒にいるうちに自然と覚えただけだ。
「そして、僕はこの薬について知識があります」
「これは中毒性のあるものではありません。継続して使っても身体を壊さない。魔力を扱う身体の働きを助ける薬です。大げさなものではなく、魔力のための栄養剤みたいなものですね」
少なくとも、ノアが作った当時はそうだった。
あいつは魔術の才能もリゼットと同格だったと思う。
そのくせ、生まれつきの才能で出来ることと出来ないことが決まるのをひどく嫌っていた。
自分にしか扱えない術式を作れば、誰でも扱えるように書き直した。魔術師にしかできない仕事があれば、それを道具で代用できるようにした。
帝国中に道路を通したときも似たようなものだった。優秀な魔術師が一人いれば何とかなる方法ではなく、普通の人間を集めても同じものを造れる仕組みにした。
才能を道具で台無しにすることに、妙な執念があった。
この薬も、その延長だ。
「ですから、この薬はアルシア教の教義では禁止されません。むしろ使うことを勧めてもおかしくない」
神父は何も言わずに聞いている。
「でも、帝国法では禁止されている」
第二代皇帝が出した禁令は現在まで残っている。
「国の法律では違法だけど、教義では問題がない。それどころか、人に利益を与えるものとして扱える。アルシア教なら、どちらを優先するかは決まっていますよね」
部屋が静かになった。
エレナも今度は僕を止めなかった。
神父はしばらく僕を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ほお」
初めて、少しだけ興味深そうな顔をした。
「あなたは非常に教養の深い方だ」
「ありがとうございます」
「ですが、今のお話は、あくまであなたの推論にすぎません」
「そうですね」
「私はこのような町の教会を預かっているだけの身です。帝国各地の教会が何をしているのか、まして教会上層部がどのような判断をしているのか、そのすべてを知る立場にはありません」
ずいぶん慎重な言い方だった。
「ですから、あなたの推論が事実であるとも、間違っているとも、私から申し上げることはできません」
「なるほど」
「ただし」
神父はそこで一度言葉を切った。
「あなたがおっしゃったようにアルシア教の教義を理解することは可能である、と申し上げましょう」
「えっ」
エレナが神父を見る。
「それって、教会がやっているってことですか?」
「私はそのようなことは申し上げておりません」
「でも、今のはそういう意味ですよね?」
神父は微笑んだまま答えなかった。
エレナの眉が寄る。
「だめですよ。法律を破ったら」
「エレナ」
「何ですか?」
「だめだよ。そういう無粋なことを言ったら」
「無粋とか、そういう問題なんですか?」
納得できないのが顔に出ていた。
まあ、普通はそう考えるのだろう。
でも、教会の意図はほとんど分かった。
考え方まで昔と変わっていないのなら、誰の影響なのかも想像がつく。
入口に立っていた、実物よりずいぶん優しそうな聖女像を思い出す。その顔の代わりに、僕の知っているセラフィナの笑顔が浮かんだ。
『害のないものを、法律で禁じられたからというだけで必要な人から取り上げるのですか? それでは救える人も救えませんよ』
彼女なら、穏やかな顔でそう言うだろう。
『むしろ禁じられているからこそ、私たちが手を差し伸べる意味があります。法律だけですべての人を救えるなら、最初から教会など必要ありませんから』
そこまでは、いかにも聖女らしい。
『ただ、危険を冒してお渡しする以上、少々お高くなるのは仕方ありません。そのお金で孤児院の子供たちがお腹いっぱい食べられるのですから、皆さんも喜んで払ってくださるでしょう』
やはり、僕が死んだあとも、教会の根っこはあまり変わっていないらしい。




