エレナとの出会い
翌朝、僕は訓練場には行かず、庭の木陰で本を読んでいた。
ガレス兄上との訓練が嫌いなわけではない。ただ、毎朝同じように剣を振って、何度も打ち合うのは少し退屈だった。
昨日までの僕なら、それでも真面目に通っていたらしい。
前世の記憶が戻ってから、その辺りの感覚も少し変わっていた。
今読んでいるのは、前の人生でも知っていた小説だった。
僕が死ぬ少し前に新刊が出て、その先が気になっていたのを覚えている。当時はまだ続きがなかったが、今ではとっくに完結していた。
これがかなり面白い。
記憶が戻る前の僕は小説にほとんど興味がなかったらしく、本棚にあるのも歴史書や剣術書ばかりだった。わざわざ町から何冊か取り寄せてもらったが、続きを何十年も待たずに読めるのはなかなか贅沢だった。
残念なのは、僕が前世で書いた自伝が見つからなかったことだ。
屋敷の蔵書にもなく、町の書店に聞いても絶版だと言われた。
一応、初代皇帝本人が書いた本なのだが、それでも残らなかったらしい。
どうも僕には文才がなかったようだ。
そんなことを考えながら次の頁をめくろうとしたところで、木剣が風を切る音が聞こえた。
顔を上げる。
音は少し離れたところから、一定の間隔で続いている。
ちょうど区切りもよかったので、本に栞を挟んで立ち上がった。
音のする方へ向かうと、使用人や兵士が使う小さな練習場に出た。
一人の女騎士が木剣を振っている。
見覚えがあった。
名前は確か、エレナ。
栗色の髪を後ろでまとめ、訓練着の袖を肘まで上げている。朝の合同訓練はもう終わっている時間だが、一人で残っているらしい。
エレナは剣を振り下ろすと、一度止まった。
足元を見て立つ位置を変え、もう一度振る。
次は踏み込む距離が少し短くなった。
身体強化はそれほど強くない。剣に流している魔力も少なく、ガレス兄上のような迫力はなかった。
今のところ、あまり強い騎士ではなさそうだ。
それでも見ていると、何度も同じ動きを繰り返しながら、そのたびに少しずつ直している。
そういえば、以前にもここでエレナを見かけたことがあった。
そのときはガレス兄上との訓練へ向かう途中だったので、そのまま通り過ぎた。考えてみれば、何度か同じ姿を見ている。
僕はしばらく眺めた。
自分が毎朝ガレス兄上と打ち合うより、こういう人に強くなってもらった方がいいかもしれない。
前世でも、強い敵を全部僕が倒していたわけではない。
リゼットの方が強かったし、ほかにも僕より戦える人間はいくらでもいた。それで特に困らなかった。
僕は本を片手に練習場へ入った。
「エレナ」
木剣が止まった。
振り返ったエレナは僕を見ると少し驚き、すぐに姿勢を正した。
「アルト様。おはようございます」
「おはよう。毎朝やってるの?」
僕が木剣を示すと、エレナもそちらへ視線を落とした。
「はい。できる日は、合同訓練のあとに」
「そうなんだ」
エレナは不思議そうに僕を見ている。
考えてみれば、僕から話しかけたことはほとんどなかった。
「少し話してもいい?」
「もちろんです」
エレナは木剣を下ろした。
「僕の直属にならない?」
「……私がですか?」
「うん」
エレナは自分を指差した。
「どうして私なんですか?」
「君がいいと思ったから」
答えると、エレナはしばらく待っていた。
「……それだけですか?」
「前からここにいるのは見てたし、さっきも少し見てたよ」
「見ていたんですか?」
「うん」
エレナは急に自分の髪へ手をやった。額には汗も浮いている。
「声をかけてくださればよかったのに……」
「集中してたから」
エレナは少し恥ずかしそうに髪を整えてから、こちらへ向き直った。
「直属というのは、護衛ということでしょうか?」
「たぶんそれが一番多いかな。外へ出るときについてきてもらったり、必要ならほかの仕事も頼むと思う」
「分かりました」
「父上には僕から話すよ。給金も今より上がると思う」
「それはありがたいですけど……」
そこでエレナが言葉を止めた。
「どうしたの?」
「一つ、確認してもいいでしょうか」
「何?」
なぜか急に言いにくそうな顔になる。
「私を、その……騎士以外の目的でそばに置くつもりではありませんよね?」
一瞬、意味が分からなかった。
その間にもエレナの顔が赤くなっていき、ようやく察した。
「妾とか?」
「はっきり言わないでください」
聞いてきた本人の方が慌てている。
なるほど。
若い貴族が女騎士をわざわざ直属にするとなれば、そういう見方もあるらしい。
前世では直属の部下などいくらでもいたので、その発想はなかった。
「それは違うよ」
「そうですか」
エレナは目に見えて安心した。
「そういう相手なら、もう少し別の基準で選ぶと思う」
「別の基準ですか?」
「見た目とか」
安心していた顔が止まった。
「アルト様」
「うん」
「今、私に魅力がないと言いました?」
「そこまでは言ってないよ」
「ほとんど同じです」
エレナの手にある木剣が少し持ち上がったので、僕は半歩下がった。
「頭はやめてね。まだ痛いから」
「打ちません」
そう言いながらも、かなり腹は立っているらしい。
「でも、今のは失礼です」
「ごめん」
「本当に失礼ですよ」
「それは分かった」
エレナはしばらく僕を睨んでいたが、やがて木剣を下ろした。
「……では、本当に騎士として私を選んだんですね?」
「そうだよ」
エレナは僕の顔を見たあと、少しだけ背筋を伸ばした。
「分かりました。お受けします」
「いいの?」
「はい」
今度は迷わず頷いた。
「アルト様が私を選んでくださったんですよね」
「うん」
「でしたら、やります」
そう答えた途端、エレナの表情が明るくなった。
「ただ、一つお願いしてもいいでしょうか」
「何?」
「一応、両親に相談してもいいでしょうか。心配されると思うので」
「もちろん」
「ありがとうございます」
父親は遠方の領主に仕える騎士団長だったはずだ。すぐに会いに行ける距離ではないので、手紙を出すことになるのだろう。
「じゃあ、父上には僕から話しておくよ」
「お願いします」
エレナは勢いよく頷いた。
さっきまで僕を睨んでいたのが嘘のように、口元が緩んでいる。木剣を握り直す手まで妙に軽い。
「そんなに嬉しい?」
「はい!」
ほとんど間を置かずに返事が飛んできた。
自分でも少し声が大きかったと思ったのか、エレナは一瞬だけ口を閉じる。
それでも、笑顔はまったく隠せていなかった。
「……嬉しいです」
そう言って、もう一度大きく頷いた。




