初代皇帝の記憶
目を開けると、見慣れた天井があった。
しばらく眺めてから、自分の部屋だと分かる。窓から差し込む光は赤みを帯びていて、朝から訓練していたはずだから、かなり長く眠っていたらしい。
身体を起こそうとすると、頭に鈍い痛みが走った。
「痛っ……」
手を伸ばしてみると、額から側頭部にかけて包帯が巻かれている。そこでようやく、朝のことを思い出した。
次兄のガレス兄上との訓練中、頭に木剣をまともに受けたのだ。本来なら寸前で止めるはずだったのだろうが、僕が妙な避け方をしたせいでちょうど当たった。
辺境伯家の三男である僕――アルト・ヴァレンは、長男のセドリック兄上と次男のガレス兄上を相手に家督を争っている。父がまだ跡継ぎを決めていないので、三人とも勉強や武芸を続けていた。
その訓練で気絶したらしい。そこまでは分かる。
問題は、その後だった。
僕は枕へ頭を戻して目を閉じた。すると、知らないはずの景色がいくつも浮かんでくる。
雨の中を進む軍列や、泥だらけになった兵士たちと味の薄い麦粥をすすった夜。震える手で降伏文書へ署名する王の姿も、その数年後、大勢の歓声を浴びながら皇帝冠を被った日の眩しさも覚えていた。
一つや二つではない。記憶はそこから何十年も続き、最後に見たのは、大きな寝台の上から眺めた天蓋だった。
身体はもうほとんど動かなかった。それでも仕事だけはなくならず、側近に書類を読ませながら返事をしていた。
六十年近く生き、国を作って初代皇帝レオン・アウグストになり、そのまま死んだ。
その人生を、今の僕は最初から最後まで覚えている。
僕は目を開けて、しばらく天井を見つめた。もう一度目を閉じても記憶は消えず、夢にしては細かすぎる。
昔の部下の顔も、戦場で食べたものも、どうでもいい会議で誰が寝ていたかまで思い出せた。
僕はゆっくり身体を起こした。頭はまだ痛むが、それ以外は何ともない。
床へ足を下ろして、そのまま立ち上がると、身体が驚くほど軽かった。
机の脇にある姿見には、黒髪の少年が映っている。
十六歳のアルト・ヴァレン。今日の朝まで見慣れていたはずの顔なのに、今は随分若く見えた。
試しに腕を上げてみると、何の問題もなく上がる。膝を曲げても痛くない。
前の人生では、晩年になると寝台から起きるだけでも侍医や従者に手伝ってもらっていた。何の支えもなく立って歩けるだけで、かなり違う。
「若いな……」
当たり前のことを口にしてから、僕は部屋を見回した。
本棚には、以前から帝国史が置かれている。
学校の勉強で何度か読んだことのある本だったが、今なら意味が違う。僕は本棚から帝国史を抜き取り、寝台へ戻った。
最初の方を開くと、見覚えのある男の肖像画が載っている。立派な服を着て椅子に座っているその男は、僕だった。
実物より少し凛々しく描かれている気がする。
その下には、諸国をまとめ、現在の帝国を築いた偉大な初代皇帝について長々と書かれていた。以前なら何とも思わず読んでいた文章だが、今読むと少し居心地が悪い。
僕一人で国を作ったわけではないからだ。
ページをめくると、今度は初代皇帝を支えた者たちについて書かれていた。
圧倒的な魔力ですべてを破壊した、赤髪の魔女リゼット。
数多くの発明を残した、天才魔術師ノア。
初代皇帝とともに乱れた世を導いた、聖女セラフィナ。
そして、皇帝のそばに常に仕えながら、芸術家としても多くの作品を残したダヴィド。
四人とも、随分立派に書かれている。
けれど、僕にとっては歴史上の偉人ではなかった。みんな大切な親友で、驚くほど優秀だった。
その分、迷惑をかけられたこともかなり多かったけれど、それも今となってはいい思い出だ。
もう一度ページへ目を落とすと、肖像画の中の四人は、誰もが妙に真面目な顔をしていた。少なくとも、僕の記憶にある姿とは少し違う。
僕はそのまま何枚かページをめくった。
自分たちについて書かれた部分を読むのも面白かったが、それ以上に気になることがある。
僕が死んだ後の帝国だ。
後ろにある年表を開き、年代を追っていく途中で指が止まった。もう一度数字を確認する。
「……四十年?」
僕が死んでから、およそ四十年が経っていた。
同じ時代のどこかに生まれ直したわけではないらしい。思っていたよりも、ずっと長い時間が過ぎている。
僕は年表を戻し、自分の次に皇帝になった男を探した。
ヴィクトル・ラウゼン。
何度も意見が衝突したし、僕の顔を見るたびに面倒な書類を持ってくるので、会うとあまり嬉しくなかった。それでも能力だけは一度も疑ったことがなく、僕が死ぬ前に帝国を任せた相手だった。
名前の横に書かれた在位期間を見る。
一年。
「……一年?」
読み間違いではなかった。
即位後、各地に残っていた反乱を鎮圧し、税制を整理し、宮廷組織を再編。その翌年には自ら退位している。
退位した理由についてはいくつか説が紹介されていたが、僕には何となく分かった。
たぶん、仕事が終わったのだ。
帝国が安定した以上、自分が皇帝を続ける必要はないと判断したのだろう。あいつならやりそうだった。
「任せる相手を間違えたかな」
ただ、一年で必要なことは全部やっている。仕事を任せたこと自体は間違っていない。
皇帝を一年で辞めるとは思っていなかっただけだ。
その次の名前には、もっと驚いた。
三代皇帝、エリオット・ファルネーゼ。
覚えている。僕の晩年にはまだ若い官僚で、真面目で仕事もできたが、宮廷にはもっと目立つ人間が何人もいた。
僕自身、二度ほど話したくらいだったと思う。
その青年がヴィクトルの後を継ぎ、今も皇帝として帝国を治めている。
僕はそのままページを進めた。
帝国は健在だった。大規模な内乱もなく、エリオットの治世はすでに長く続いている。
ただ、僕が覚えているころより領土はかなり小さくなっていた。遠方からは軍を引き、辺境の自治を認め、いくつかの属国は独立している。
僕のころなら軍を送った場所で、今の帝国は条約を結んでいた。
その一方で、大きな戦争は随分減っている。本に書かれている限りでは、民が大量に飢えたような時期もなさそうだった。
何ページか読んでから、僕は本を閉じた。
「つまらないな」
思わず声が出た。
帝国が滅びていてほしかったわけではないし、領土を取り返せとも思わない。平穏に続いているなら、それでいい。
ただ、それが分かってしまうと、急に続きを読もうという気がなくなった。
僕は帝国史を脇へ置き、姿見に映る自分へ目を向けた。
十六歳の辺境伯家の三男。初代皇帝だったころと比べれば、随分気楽な立場だ。
皇帝だったころは朝から書類を読み、会議をし、食事をしていても報告が来た。戦場へ出れば敵だけでなく補給と外交まで考えなければならず、宮廷へ帰れば今度は貴族同士の揉め事が待っていた。
何十年も続けたので、もう一度やりたいとは思わない。
それより、今までできなかったことの方が気になった。
前の人生では、聖女セラフィナが作り上げた「神聖な皇帝」という印象のせいで、日々の生活はかなり抑圧されたものだった。何をするにも立場を気にしなければならず、少し羽目を外すだけでも周囲が勝手に意味をつける。
六十年近く生きて、それが当たり前になっていた。
けれど、今の僕はもう皇帝ではない。今回の人生では、もう少し自然体で生きてもいいのかもしれない。
そこまで考えたところで、思っていたより大きな音で腹が鳴った。
僕は腹へ手を当てる。
そういえば、朝から何も食べていない。頭を打って長いこと眠っていたのだから当然だった。
六十年分の記憶が増えても、十六歳の身体には関係がないらしい。
僕は帝国史を机へ戻し、壁際の呼び鈴を鳴らした。
少しすると廊下から足音が近づき、扉の向こうから侍女の声がした。
「アルト様、お目覚めですか?」
「うん。何か食べるものを頼める?」
「すぐにお持ちします」
返事のあと、足音が遠ざかっていく。
僕は寝台へ戻り、包帯に触れないよう枕へ身体を預けた。
しばらくすると、廊下の向こうから食器の触れ合う音が聞こえてきた。




