黒鱗の襲撃
翌朝。
ヴァレン家の屋敷が賊に包囲されているという知らせは、すぐにセドリックのもとへ届けられた。
「黒鱗が?」
「はい。かなりの人数です」
報告に来た兵士は、息を切らしながら答えた。
セドリックは執務机から立ち上がると、窓辺へ歩み寄った。
ここからでは門の外までは見えない。それでも、屋敷の周囲が慌ただしくなっていることは分かる。兵たちの声が飛び交い、遠くでは何かを叩くような音も聞こえていた。
「裏手はどうなっている?」
「そちらにもいます。東も西も確認しましたが、すべて塞がれています」
兵士の報告を聞き、セドリックはしばらく黙った。
単に屋敷を襲うだけなら、ここまで念入りに包囲する必要はない。一人も逃さず、屋敷にいる者をまとめて始末するつもりなのだろう。
「アルトを呼べ」
セドリックが告げると、兵士が顔を上げた。
「アルト様を、ですか?」
「ああ。それから、動ける兵の中から腕の立つ者を集めろ」
セドリックは窓から離れ、兵士へ向き直った。
「アルトを中心にして、一点に戦力を集中させる。そのまま包囲を突破して、屋敷から離脱しろ」
「ですが、セドリック様はどうなさるのですか?」
「俺は残る」
兵士が言葉を失った。
セドリックの表情は変わらない。
「ヴァレン家はこの辺りを治める家だ。賊に囲まれたからといって、当主の代わりを任されている俺まで逃げるわけにはいかない」
「しかし、それでは……」
「全員で逃げれば追われる。俺が屋敷に残っていると分かれば、連中もこちらを無視できないだろう」
そこまで聞いて、兵士もようやくセドリックの意図を理解したらしい。
目に涙が浮かんだ。
自分が屋敷に残ることで敵を引きつけ、その間に弟や部下たちを逃がすつもりなのだ。
「賊どもにも伝えておけ」
セドリックは静かに続けた。
「セドリック・ヴァレンはここにいるとな」
「セドリック様……」
「泣くな。まだ死ぬと決まったわけじゃない」
そう言われても、兵士の涙は止まらなかった。
セドリックはそれ以上何も言わず、手で退室を促した。
「急げ」
「……はい!」
兵士は深く頭を下げると、部屋から走り去っていった。
扉が閉まったところで、セドリックは小さく息を吐く。
「随分と格好をつけましたな」
横から声がした。
振り向くと、長くヴァレン家に仕えてきた執事が立っていた。
「聞いていたのか」
「すぐ横におりましたので」
「なら、お前も行け。使用人たちも、できる限りアルトと一緒に逃がす」
「お断りいたします」
執事は迷うことなく答えた。
セドリックが眉を寄せる。
「命令だぞ」
「それでしたら、最後に一度だけ命令違反をさせていただきます」
執事は丁寧に頭を下げた。
「わたくしも残ります。あなたに最後に最高のお茶をお淹れしなければなりませんので」
セドリックはしばらく執事を見ていた。
「……ふざけたことを」
「申し訳ございません」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
セドリックは顔を背けた。
その目にも、わずかに涙が浮かんでいた。
それから間もなく、廊下を走る足音が近づいてきた。
「セドリック様!」
先ほどの兵士だった。
セドリックはすぐに表情を戻す。
「アルトは? 部隊の編成は終わったか?」
「いえ。それが……」
兵士は先ほどまでとは別の意味で困った顔をしていた。
「アルト様に状況をお伝えしたところ、『ちょうどよかった』とおっしゃいまして」
「……ちょうどよかった?」
セドリックが聞き返す。
「はい」
「何がだ?」
「私にも分かりません」
兵士は正直に答えた。
◇
屋敷を囲む黒鱗の部隊では、ヴァルドと四人の幹部が襲撃の開始を待っていた。
周囲には武器を持った男たちが並んでいる。
集められるだけの人員を集め、薬も十分に配った。ヴァレン家の当主とガレスが留守であることも確認している。
これだけの戦力があれば、屋敷を潰すには十分なはずだった。
「ようやくだな」
清龍が身体をほぐすように肩を回した。
玄武がその様子を見て笑う。
「随分楽しそうじゃねえか」
「領主の屋敷に殴り込むんだ。少しくらい楽しませろ」
「ほどほどにしておけ」
白虎が呆れたように言った。
朱雀だけは会話に加わらず、少し離れたところから屋敷を眺めている。
ヴァルドも落ち着かない高揚を感じていた。
そのときだった。
「ヴァルドさん!」
一人の男が走ってくる。
その慌て方を見て、ヴァルドはすぐに表情を引き締めた。
「どうした?」
「先行させた部隊が壊滅しました!」
「何?」
ヴァルドより先に反応したのは清龍だった。
「壊滅だと? 屋敷の兵が出てきたのか?」
「いえ」
報告に来た男は、自分でも信じられないという顔をしていた。
「相手は一人です」
「一人?」
清龍が眉を寄せる。
その横で、朱雀が静かに口を開いた。
「油断したか。領主の屋敷なんだ。腕の立つ兵が残っていてもおかしくない」
だが、その直後に別の男が駆け込んできた。
「報告です!」
続けて人が来たことで、今度はヴァルドが声を荒らげた。
「何だ!」
「女騎士が一人、こちらへ向かってきています!」
ヴァルドは一瞬黙ったあと、口元を吊り上げた。
「先行部隊をやった女か?」
「おそらく」
「一人でここまで来る気か。特攻とは、気骨があるじゃねえか」
玄武も笑いながら前へ出た。
「だったら俺が思い知らせて――」
「待て」
清龍がその肩を掴んだ。
「俺にやらせろ」
玄武は不満そうに清龍を見る。
「つまんねえ奴だな」
「清龍さんは元騎士ですからね」
白虎が横から口を挟んだ。
「一人で主人の屋敷を守ろうとしている騎士を見れば、思うところもあるのでしょう」
「余計なこと言うんじゃねえ」
清龍はそう返したが、否定はしなかった。
やがて、前方を見張っていた男が声を上げた。
「来ました!」
黒鱗の男たちが一斉にそちらを見る。
屋敷へ続く道を、一人の女が猛烈な勢いで走ってきていた。
「うあああああああっ!」
大声を上げながら、エレナが地面を蹴る。
髪は乱れ、身体からは目に見えるほど濃い魔力が溢れていた。足を踏み出すたびに土が跳ね、その速度も普通の騎士とは比べものにならない。
清龍の顔から笑みが消えた。
「なるほどな」
近くの部下から大剣を受け取る。
目の前の女が普通の状態ではないことくらい、清龍にも分かった。
「理性を捨ててまで自分を強化したか。見事な忠誠心だ」
清龍は大剣を構えた。
「来い!」
「うああああっ!」
エレナは返事らしい返事もせず、そのまま突っ込んだ。
清龍が大剣を振り下ろす。
重い刃がエレナの頭上へ落ちた。
だが、エレナは避けなかった。
両手を上げ、その大剣を素手で受け止める。
「なっ……」
清龍の顔が引きつった。
全力で振り下ろしたはずの大剣が、そこで完全に止まっていた。
次の瞬間、エレナが清龍の腹を蹴り上げる。
「がっ!」
清龍の身体が宙を飛んだ。
後ろにいた男たちを何人も巻き込み、そのまま木へ激突する。
「清龍さん!」
白虎が叫んだ。
だが、エレナは清龍の方を見ようともしない。
そのまま次の相手を探すように顔を動かした。
その態度に、白虎の顔が怒りで歪む。
「貴様!」
白虎は剣を抜いた。
「清龍さんが剣を取って正面から挑んだというのに、剣すら抜かないのか! あの人の思いを何だと思っている!」
エレナが白虎を見る。
それだけだった。
白虎の正面に、大きな炎の塊が生まれた。
「な――」
次の瞬間には炎が飛び、白虎の身体を正面から飲み込んでいた。
爆発するような音が響く。
白虎は地面を転がり、全身から煙を上げたまま動かなくなった。
「二人で行くぞ!」
玄武が叫んだ。
さすがに様子を見ている場合ではないと判断したらしい。
朱雀もすぐに動き、玄武とは反対側からエレナへ回り込む。
玄武は全身を魔力で強化し、正面から突っ込んだ。
「潰す!」
その拳が届くより早く、エレナが片手を振った。
足元から大量の水が噴き上がり、玄武の巨体を正面から押し返す。
「ぐっ……!」
それでも玄武は踏みとどまろうとした。
だが、エレナはその水の中へ自分から飛び込み、一気に距離を詰める。
拳が玄武の顔へ入った。
身体が横へ吹き飛び、そのまま地面を何度も転がる。
その背後では、すでに朱雀が短剣を振り上げていた。
エレナの首筋を狙う。
しかし、エレナは振り向きもしなかった。
後ろへ向けた掌から風が弾ける。
「なっ!」
朱雀の身体がそのまま宙へ持ち上げられた。
数メートル先へ叩きつけられ、起き上がることなく倒れる。
わずかな時間で、四人の幹部が全員地面に転がっていた。
「……なんだ、こいつ」
ヴァルドの口から声が漏れた。
黒鱗の中でも、あの四人は別格だった。
縄張りを任せているのも、単に古くからいるからではない。それだけの力があるからだ。
その四人が、一人の女にほとんど何もできずに倒された。
「囲め!」
ヴァルドは部下たちへ怒鳴った。
「一人だ! 全員でかかれ!」
だが、誰も動かなかった。
目の前では、エレナがまだ大量の魔力を撒き散らしている。
あれへ自分から近づこうとする者などいない。
「うあああああっ!」
エレナが再び叫んだ。
男たちが一斉に後ずさる。
ヴァルドも無意識に一歩下がった。
まずい。
そう思って横を見る。
四人とも動かない。
このままここにいる理由はなかった。
ヴァルドがさらに後ろへ下がろうとした、そのときだった。
「まだ結構残ってるな」
場違いなくらい穏やかな声が聞こえた。
ヴァルドが振り向く。
一人の少年が、いつの間にか黒鱗の男たちのすぐ近くまで来ていた。
アルト・ヴァレン。
今回の騒動の原因となった領主の三男だった。
だが、アルトはヴァルドを見ていなかった。
倒れている清龍たちにも、ほとんど関心を向けていない。
ただ、暴れているエレナを見ていた。
「これだけいれば、もう少し減ると思ったんだけど」
アルトが小さく呟く。
ヴァルドには意味が分からなかった。
「……何がだ?」
思わず尋ねる。
アルトはそこで初めてヴァルドへ目を向けた。
「魔力」
それだけ答えると、すぐにまたエレナを見る。
「まだかなり残ってるよね」
ヴァルドは何も言えなかった。
何の話をしているのか分からない。
そもそも、目の前の女騎士は明らかに普通ではなかった。
たった一人で先行部隊を潰し、黒鱗の幹部四人までほとんど相手にしなかった。あれほどの魔力を撒き散らしながら奇声を上げ、痛みも恐怖も感じていないように暴れている。
何か異常な方法で強化されている。
そこまではヴァルドにも分かった。
そして、この少年はその理由を知っている。
それなのに、何とも思っていない。
心配している様子すらなく、ただエレナの魔力がどれだけ残っているのかを見ている。
「まだ動ける人、結構いるよね?」
アルトが黒鱗の男たちを見回した。
何人かが反射的に後ずさる。
アルトはその反応にも特に気づいた様子はなかった。
「せっかくだし、もう少し使ってもらおうかな」
ヴァルドの背筋に冷たいものが走った。
何を使うというのか。
誰に、何をさせるというのか。
分からない。
ただ、この少年にとっては、目の前で四人の幹部が倒れたことも、自分の屋敷が襲われたことも、大した問題ではないらしい。
怒ってすらいない。
敵を憎んでもいない。
あれほど異常な状態の女騎士を見ても、まるで動じていない。
ただ何かを確認するように、こちらの人数とエレナを交互に見ている。
ヴァルドには、その考えていることがまるで分からなかった。
それが何より怖かった。
まるで、自分たちが人間として数えられていないような気さえしてくる。
「うあああああああっ!」
エレナが叫び、黒鱗の男を一人吹き飛ばした。
アルトはその様子を見ながら、少し首を傾げる。
「うーん。まだか」
「待ってくれ!」
ヴァルドは叫んだ。
気づけば、その場で膝をついていた。
「降参する!」
アルトがようやくヴァルドを見る。
「え?」
「俺たちの負けだ! 罪は償う! だから、もうやめてくれ!」
「もう終わりなの?」
「ああ!」
ヴァルドは即答した。
「部下にも抵抗させない! だから命だけは助けてくれ!」
アルトはしばらくヴァルドを見たあと、周囲へ目を向けた。
まだ立っている黒鱗の男たちは大勢いる。
それからエレナを見る。
相変わらず、かなりの魔力が残っていた。
アルトは小さくため息をついた。
「ああ。これで終わりなのね」
ヴァルドには、そのため息の意味すら分からなかった。
「分かった」
アルトが片手を上げる。
淡い光が地面を走り、ヴァルドや周囲の男たちの身体へ絡みついた。
「拘束したから、そのまま屋敷の兵たちに中へ入れてもらって」
「わ、分かった」
「外には出てこないでね」
アルトが念を押す。
ヴァルドは恐る恐る理由を尋ねた。
「……なぜだ?」
アルトはエレナの方を見た。
「まだ暴れるから」
「うあああああああっ!」
少し離れたところで、エレナの叫び声が響く。
「絶対に出ない」
ヴァルドはすぐに答えた。




